2009.10.06
「法学的思考」と「経済学的思考」
日経ビジネスオンライン - 最低賃金の引き上げが失業者増やす? 民主党の経済政策を点検する(5)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20091001/205995/

最低賃金引き上げをはじめとする規制強化について、次のように書かれている。

<しかし、働く人の労働条件を向上させるための規制強化については、これらの政策を現在のような経済情勢下で実施した場合には、かえって雇用情勢が悪化すると危惧する経済学者、エコノミストは少なくありません。これは、雇用政策を巡って、法学者と経済学者でしばしば意見の相違がみられる点でもあります>。

<労働法学者と労働経済学者のコラボレーションである『雇用社会の法と経済』(荒木尚志・大内伸哉、大竹文雄、神林龍編、有斐閣)の巻末座談会の中で、清家篤慶應義塾大学教授は、法学的思考と経済学的思考について「労働法学者が、困っている労働者を助けるためにいろいろな規制や政策を行う必要があるという主張をされるのに対して、労働経済学者は、もちろん困っている労働者を何とかしなければいけないという点についてはかなり同調しながら、しかし、労働法学者がいうような規制や政策を進めれば進めるほど、かえって労働者には気の毒な結果となるのではないか、というコメントが多かった気がする」と述べています>。

<このような議論が起きるのは、経済学では、一つの変化が起きたときに、相互作用として何が起きるかを重視するからだと思われます>。

この「法学的思考」と「経済学的思考」の違いは、見過ごせない問題である。日本の政策決定や司法判断は、基本的に「法学的思考」のほうに寄りがちで、「経済学的思考」は欠落している傾向があると思わざるを得ない。つまり、「規制をどんどん増やす」ことで問題が解決する、と考える傾向が強いと感じる(さらに実際上は、政府が自己肥大しようとする傾向、自己の権限と予算を増やそうとする傾向が、これにますます拍車をかける)。

常木淳氏は「不完備契約理論と解雇規制法理」の中で、この見方の対立を<法学と経済学の規範的対立>と呼んでいる。冒頭で、素朴な誤解に陥らないよう注意をうながしつつ、次のように述べている。

<経済学者は自由な契約と市場における競争がもたらす効率性の利益を重視し,それへの私法的介入に対しては基本的に抑制的である。強制の要素なく自由に締結された契約は,定義によって両当事者の利益を改善しており,効率性のみならず公平性の観点から見ても,そのための必要条件として当然に是認できると考えられるからである。資本主義市場経済がもたらす富の分配の不平等に対しては,税法・社会保障法などの公法的手法を利用した対処が目指されるべきであり,民法・商法など私法の分野での「公平性」の観点からの規制の根拠を薄弱なものと考えやすい。これらの公法的手法による富の分配の是正効果が十分でない場合,私法的な介入が補完的に必要となる可能性は否定しないが,このような場合でも,個別的正義の観点にとどまらず,全体としての富の分配の公平が期されるべきである,と考える。すなわち,個別的な政策の分配効果ではなく,すべての政策を総合したときの公平性を考えるのでなければ,個別には公平に見える政策の全体が,結果として不公平な帰結をもたらす危険が大きいからである。また,これら富の分配の是正措置が社会にもたらすであろう資源配分上の費用を考慮して,それと公平性への配慮との間の考量が行われるべきであり,単純に「公平だから,正義だから」といったスローガンのみに頼った政策的意思決定を行うことは戒められるべきであると考える>。

まったくその通りだろう。単に議論の場であれば、「法学的思考」と「経済学的思考」の対立があっても構わないと思うが、実際に政策決定や司法判断する場合は、<個別的正義の観点にとどまらず,全体としての富の分配の公平が期されるべき>であり、<単純に「公平だから,正義だから」といったスローガンのみに頼った政策的意思決定を行うことは戒められるべき>なのだ。

何が「公平」なのか、何が「正義」なのかというのは、結局のところ価値判断である。政策も判決も、たくさんの情報を基にしつつ、最後は「エイヤ」で決めるしかない部分があり、万人が納得する客観性というのは不可能だろう。しかし、そこで「経済学的思考」が前提とされていないのでは、その判断はとても「公平」や「正義」とは言えない。

経済学は、何が「公平」なのか、何が「正義」なのかについては語らない。経済学は、人間の経済行動からどのような経済現象が生まれるかを語るものに過ぎず、何が「公平」なのか、何が「正義」なのかという価値判断は含まれない。しかし、法学は「法理」という価値判断を含む。なぜその法が必要なのか、なぜそういう司法判断になるのか、その根拠を説明することが、学問的責務だろう。

だとすれば、「法学的思考」と「経済学的思考」が対立しているというよりも、「法学的思考」には「経済学的思考」が含まれていなければならないはずなのだ。経済学の見識を抜きに、何が「公平」なのか、何が「正義」なのかを決められるはずがない。

八田達夫氏は『ミクロ経済学』の終章「効率化政策と格差是正政策の両立」で、こう書いている。

<借地借家法正当事由にしろ、解雇規制にしろ、長期契約継続法理による強行規定は、基本的に、まだ契約していない人たちを犠牲にする既得権保護政策の一種です。長期契約継続法理は、日本社会の再分配政策を律してきた「既得権保護原則」に基づいた政策の一種だと言えるでしょう。
 長期継続契約の保護を行うことの問題は、個別の悲惨さに目を奪われて、保護を行うことが、結果的に、契約の当事者以外の人たちに、より大きな悲惨を生むことを無視していることです。
 経済学の特徴は、ある政策の評価をするときに、その政策がもたらす便益をその政策がもたらす社会的機会費用と比較して判断することです。それに対して、判例を作っていった裁判官たちは、個別の係争の事情に目を奪われて、自分たちが作った判例の社会的機会費用を評価する余裕がなかったのでしょう。
(1)借地借家法における強行規定は、家主の借家供給を抑制し、(2)貸金契約における強行規定は、貸し主に金を貸さなくさせ、(3)解雇契約における強行規定は、雇用を削減させることなどには思いいたらないのでしょう。さらにこれら強行規定のいずれもが、目の前にいるかわいそうな人の既得権を守る代わりに、個別の係争とはまったく関係ない真の社会的弱者に対して大きな犠牲を払わせる結果をもたらします。これまでの法曹教育で経済学が意味ある形で取り入れられていなかったために、裁判官たちは、そのことについては、考えも及ばないのでしょう>。

最低賃金引き上げや解雇規制といった規制は、それによって人や企業の経済行動を変化させ、それが社会をかたちづくる。規制を作ったり、減らしたりすることは「制度設計」であり、「ゲームデザイン」なのだ。どういう規制を作ると、人や企業の経済行動がどう変化するか、というのは経済学の見識である。この経済学の見識を抜きに、「制度設計」や「ゲームデザイン」がおこなわれているなんて、おかしくないだろうか?


関連エントリ:
解雇規制は労働者の利益になっているのか?
http://mojix.org/2009/09/24/kaikokisei_rieki
八田達夫『ミクロ経済学』 終章「効率化政策と格差是正政策の両立」
http://mojix.org/2009/08/16/hatta_micro_kouritsu
常木淳 「不完備契約理論と解雇規制法理」
http://mojix.org/2009/05/03/tsuneki_kaikokisei