解雇規制は労働者の利益になっているのか?
「ニートの海外就職日記」で、私が以前書いた「なぜ日本ではブラック会社が淘汰されないのか 日本は雇用の流動性が低いから、労働者の価値が低い」が採り上げられている。
ニートの海外就職日記 - 解雇規制の撤廃とクソ労働環境の交わらない関係。
http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/blog-entry-294.html
<確かに現状では会社側からの解雇が制限されているので、労働市場が硬直化して、「入り難く、出難い(転職し難い)」社会が築かれている。その結果、過剰なまでの新卒至上主義(新卒カードw)が幅を利かせたり、年齢制限があったりで転職のハードルが高く、ブラック会社に捕まっても後先考えると動くに動けなかったりする。だからこそ淘汰されるべきクソ会社が淘汰されずにノウノウと図太く生き延びてるって一面はあるだろう>。
この部分はまったくその通り。
<これがもし解雇規制を撤廃して雇用の流動性を上げれば、「入りやすく、出やすい(転職しやすい)」社会が実現するんだろうけど、果たしてこれがクソ労働環境の改善やブラック会社の淘汰という一番肝心なポイントに直結するのかってのは実に怪しいんだよなw>。
たしかに、解雇規制を撤廃しても、ブラック会社をなくすことはできないだろう。しかし、雇用の流動性を上げれば、労働者が「脱出」しやすくなることは間違いない。するとブラック会社も労働力を維持・調達しにくくなるので、少なくともその数は減少するだろう。
解雇規制は、ブラック会社や長時間労働を助長するだけでなく、正規・非正規の雇用格差、新卒至上主義、採用における学歴・年齢・性別・職歴などの属性による差別、多重下請け構造の助長、といったさまざまな問題を生み出している。解雇規制をなくせば、こうした問題すべてが改善に向かう。それらをあえておこなう意味が薄くなるからだ。
<ネットを見てても、雇われてる側が解雇規制の撤廃を主張してるケースは稀で、大抵は経営者側が望んでるという印象しかない。会社がお荷物社員や邪魔者(当たり前の権利を強く主張する社員など)を自由にクビに出来るようになるだけで、クソ労働環境だけはしっかり残って、有給完全消化や定時退社なんて夢のまた夢のままって気がするんだけど。。。>
解雇規制の議論では、ここが最大のポイントだろう。ブログ主のクソ仕事さんに限らず、この「解雇規制の撤廃は、経営者にとって都合がいいだけだ」という考え方は、よく見かけるものだ。私はこの考え方、「労働者と経営者の利害は対立している」という把握の仕方こそが、問題を深めてしまっていると思う。
「解雇規制の撤廃は、経営者にとって都合がいいだけだ」という考え方は、「解雇規制は経営者の身勝手な解雇を抑えており、これが労働者にとって利益になっている」という考え方である。私はこの「解雇規制は労働者の利益になっている」という考え方は間違っており、これが不幸の始まりだと考えている。
解雇規制は一見したところ、たしかに「労働者の利益」のように見える。解雇を制限されるのは企業の側だけで、労働者の側には辞める自由があるからだ。
しかし、解雇を制限された企業は、新規の採用を抑制せざるをえない。企業の業績はつねに変動するから、業績の下降局面では人を減らす必要が生じる。業績に応じて人を増減させることを「調整」というが、正社員は解雇が困難なので「調整」できない。よって企業の労働力調達は、「調整」が可能な派遣や外注にシフトせざるをえず、これが正社員採用を減らす。
そして正社員を採用する場合も、採用失敗リスクを最小化するために、社会経験や専門性を持つ人材よりも、考え方が「まっさら」で給与も安く済む新卒を好む傾向が強まる。文句を言わずに会社に献身する「イエスマン」を養成したがるわけだ。この傾向が新卒至上主義を助長している。
また、すでに採用してしまった正社員の中には、仕事ができる人と仕事ができない人がいる。仕事ができない人をクビにできず、また「家で寝ていてくれ」というわけにも行かないので、無理やり「仕事」が生み出されたりする。仕事のできない人にも「仕事」があてがわれ、無理やりチームの一員になることで、全体の効率や士気は下がるだろう。特に、仕事ができない人が上司である場合はひどい。こうした非効率性や士気の低下が、仕事の総量自体の増加と、処理効率の低下を生み、長時間労働につながっている。
さらに、仕事ができる人と仕事ができない人で、給料や待遇の上ではそれほど差がつかないから、仕事ができる人は大きく割を食う。このように、日本の会社というのは仕事ができる人にとって、何重にも不条理なところがある。会社側もその不条理を理解していたとしても、仕事ができない人を解雇できないために、そうせざるをえない面がある。
長時間労働やさまざまな不条理に耐えなければならない正社員だが、しかし正社員はまだマシとも言える。解雇規制のために正社員採用が減っており、その採用も新卒偏重なので、新卒採用を逃すと二度と就職できないということが起きやすく、正規と非正規とのあいだにカベができてしまっている。これは待遇だけでなく、職務内容やキャリア形成、社会的・経済的な「信用」などさまざまな面で格差を生み出し、ほとんど「身分」と呼べるものになっている(「職業の「身分制度」が支える日本の「与信」」、「解雇規制、職業の「身分制度」、「与信」の関係」)。そしてこれこそが、正社員が長時間労働や不条理にも耐えて、正社員のイスにしがみつく理由である。いちど「転落」すれば、二度と戻れないという恐怖があるからだ。
このように、「解雇規制は労働者の利益になっている」どころか、さまざまなかたちで労働者を苦しめている。「解雇規制は労働者の利益になっている」という考え方は、単に間違っているだけでなく、上記のような問題を維持・強化する側に立ってしまっているのだ。解雇規制に賛成している人は、解雇規制を残したままで、これらの問題をどのように解決しうると考えているのか。
最近話題になっている製造業派遣の禁止なども、解雇規制とまったく同じ構図だ。この種の労働規制は、一見して「労働者の利益」のように思えるのだが、それは企業の負担を上げるので、雇用が海外に流出したり、すでに雇用している人の労働負担が増したりする。「労働者の利益」であったはずの労働規制が、失業者を増やしてしまい、長時間労働を加速してしまうわけだ。
結局のところ、「労働者と経営者の利害は対立している」という捉え方こそが、問題を深めているように思う。経営者を敵視して、「企業への規制を強化すれば、労働者の利益になる」と考えるのは、間違っている。企業を規制すれば、企業の負担が増し、それは企業の雇用方針や商品価格などに影響を与えるので、規制の「コスト」はけっきょく労働者にまで戻ってくる。「市場はつながっている」のだ。
なお、解雇規制をなくすメリットは、会社を「脱出」しやすくなるというだけではない。「なぜ日本ではブラック会社が淘汰されないのか 日本は雇用の流動性が低いから、労働者の価値が低い」にも書いたように、ブラック会社かそうでないかにかかわらず、会社は現在よりも社員の待遇を良くする必要が生じる。社員が「脱出」する自由を得れば、社員側に交渉力が生じるからだし、また会社側もリスクに対するバッファを少なくできるからだ。雇用の「流動性」が増せば、社員の「資産価値」は増すのだ。もちろん、解雇が自由になれば会社の競争力も増すはずなので、その「分け前」もあるだろう。私の感覚でいえば、解雇規制がなくなれば、給料が倍くらいになってもおかしくないと思う(もちろん、その一方で減給・解雇される人も出てくる)。
ブラック会社を生んでいる要因について、クソ仕事さんはこう書いている。
<経営者側に解雇規制の撤廃というオプションを与えるんなら、それと同時に新卒至上主義や年齢制限も撤廃しないとフェアじゃないだろう。まあ、でも結局のところ、クソ労働環境が改善されない一番大きな原因は解雇規制などとは全く別のところにある非効率の極みとも言える「奴隷型顧客満足第一主義w」や「自己満レベルの完璧主義w」だったり、飲まないとまともにコミュニケーションも取れないw「飲み二ケーション」や、「我慢や忍耐が美徳」といったDNAレベルにまで刷り込まれている日本人の仕事観に因るところが大きいんだろうけど。だからこそクソ労働環境の問題は解雇規制だけ緩めて解決するとはとても思えないんだよな。。。>
<やっぱクソ労働環境に1人で刃向かっても異端児扱いされて村八分に遭うか、下手すりゃクビ切られるのがオチ。そういった意味では、地道な啓蒙活動wで社畜の目を覚まし、じわじわと世論を高めていくのがbestだろう>。
新卒至上主義や年齢制限は、国の制度でなく、企業の慣行である。これこそ解雇規制が助長している「悪習」であり、解雇規制をなくせば、こんなことをしても有利にならないので、これも消滅に向かうだろう。
<DNAレベルにまで刷り込まれている日本人の仕事観>というのも、違うように思う。山岸俊男の『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)を読むと、いわゆる日本人的な気質のかなりの部分は、実は「制度」によりかたちづくられたものであり、その「制度」のなかでの「生き残り戦略」としてできあがった、ということがよく理解できる。つまり「気質」というよりも「打算」なのだ。
解雇規制というのは、会社に対して「家族的な一体感」を強制するものだ。そこでは家族のように支えあうことが求められており、「仕事ができないから解雇」というのは許されないわけだ。だから逆に、社員にはオンもオフもない全人的な献身が求められるし、残業や休日出勤も当然ということになる。会社での「飲みニケーション」や「我慢や忍耐」といったものは、日本人の気質という以上に、このような家族的なつながり・献身の表現であり、家族的な「保護」を受けるための「コスト」なのだ。
会社に対して、このように家族的な濃密さを半ば強制しているのが解雇規制だが、仮に解雇規制がなくなったとしても、会社がみずから終身雇用や家族的な経営を選ぶのはまったく問題ない。実際、終身雇用のほうが良いと考えている経営者はたくさんいる。問題なのは、解雇規制によってすべての会社に終身雇用を半ば強制し、経営の自由を奪っているということだ。経営の自由が奪われれば、「市場はつながっている」ので、そのコストはさまざまなかたちで労働者にまで回ってくる。長時間労働もそのひとつなのだ。
クソ仕事さんの見方・アプローチは全体として、日本の経営者や「社畜」という他者グループをまとめて「クソ」と見なす、という「精神論」を超えておらず、他者グループのそのような行動を生み出す要因や社会構造を考える「制度論」の観点がないように思える。これについては以前、次のエントリでも書いた。
「精神論」より「制度論」を
http://mojix.org/2009/07/19/seishinron_seidoron
<日本の会社がオーバーワーク気味なのはその通りだと思うのだが、それは単に経営者が悪いという側面だけでなく、日本の強い規制と高い税金によって、会社側も「そうせざるをえない」側面や、社員側も転職がむずかしいために、「そうせざるをえない」側面もある。これを全部経営者のせいにしてしまうのは、一種の「精神論」なのであって、それは「すぐに辞めてしまう若者は根性なしだ」と決めつけるような「精神論」と同じくらい、粗雑でピント外れな議論だと思う>。
<「精神論」をいくらやっていても問題は解決できない。必要なのは「制度論」なのだ>。
<もしクソ仕事さんが、「日本の会社は徹底的に規制せよ」というのであれば、それは「制度論」になる。私のほうは、「規制をなくせ」という「制度論」なのだから、完全に反対になるが、それはそれで議論になる>。
<「経営者が悪い」「社員が悪い」という話は、大体「精神論」なのだ。なぜならば、経営者も社員も民間人だから、他者に「強制」ができないからだ。これに対して、政府は「強制」できる唯一の存在で、規制と税金をいくらでも民間に押し付けることができる。だから、その「強制」の内容が妥当なのかどうかが、きわめて重要になる>。
一般には精神論も無意味ではないが、この雇用問題に関しては、精神論はあまり意味がないと思う。なぜならば、雇用を生み出すのは企業であり、その企業の行動を制約しているのが解雇規制という制度だからだ。雇用がどれくらい出てくるか、そしてどのような人が採用されるかが、この制度に大きく制約されている。この現実を前にして、労働者の意識を変革するといった精神論的なアプローチは、まったく無意味ではないにしても、問題の原因を解消できないという意味で「無力」だろう。
私が危惧しているのは、精神論だけならばまだ「無力」で済むが、それが制度論に転化したとき、「規制強化」の方向になりかねないことだ。現状の解雇規制だけでもひどいのに、民主党政権になったいま、製造業派遣を禁止する、最低賃金を上げる、といった規制強化の方向がますます見えている。これらの規制強化の根底にはすべて、「労働者と企業の利害は対立している」という誤った捉え方がある。
クソ仕事さんは問題提起の姿勢自体はいいと思うのだが、経営者を<ヤツら>と書いていることからもわかるように、この「労働者と経営者の対立」という図式にとらわれているのが残念だ。これは典型的な「経営者ワルモノ論」であり、経営に対する無知と、仕事への不満が合体して、経営者という「悪玉」こそすべての問題要因である、と見なしてしまう一種の「陰謀論」である。この「経営者ワルモノ論」は、「悪玉」たる企業を「お上」が懲らしめること、つまり「規制強化」を支持してしまいやすい(「「分断」しているのは誰か? 「経営者ワルモノ論」の位置づけ」)。
企業を規制で不自由にしても、労働者は決して自由にならない。市場はつながっており、企業のコスト上昇は、社会全体にひろがるのだ。社会にひろがったコスト上昇でもっとも痛手を受けるのは、もっとも弱い者である。企業という「悪玉」を懲らしめたつもりが、その「懲罰」は社会全体にいきわたり、弱者こそがその「懲罰」にもっとも苦しむのだ(「日本の賃貸住宅ではなぜ保証人を要求されるのか 「保護」がむしろ「弱者」を生む日本の構造」)。
私のような規制緩和論者を「企業の味方」「資本家の手先」などと評する人がいるが、そういう見方こそが「規制強化」の流れを強めてしまい、「機会費用」を上昇させて社会の「富」を毀損し、経済の足を引っぱり、結果として弱者を苦しめてしまっているのだ。規制強化論者は、規制強化のコストがどのように伝播するかを考えず、目先の「正義」にとらわれている。
経済の動きを理解しない「正義」は、正義の名に値しないどころか、社会を破滅させかねない。そのような「正義」が、最近ますます増えつつあると感じる。「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉を思い起こす機会が、少しずつ増えている。
以上のように、日本の雇用問題については、私は制度論(「制度を変える」アプローチ)こそが核心であり、精神論(「精神を変える」アプローチ)では問題を解決できないと思っている。しかし、あえて精神論的な観点(制度をいじらないで、精神を変える)で見るならば、経営者や「社畜」に対して変化を求めるのではなく、
1)クソ仕事さんのように海外に脱出する
2)会社と待遇を交渉できる実力をつける(「辞めます」という交渉カードが効く立場になる)
3)自分で起業する
といった、「自分を変える」という方向ならば、意味があると思う。実際、日本の制度はそうかんたんに変わらないので、自分の人生を改善するほうが、現実的には重要な話だろう。制度を変えるのに比べれば、自分を変えるほうがかんたんだ。
クソ仕事さんや、クソ仕事さんに共感する人にはぜひ、クソではない会社を起業して、その手腕を見せてほしい。その上で、他の日本の会社を「クソだ」と斬り捨てるのであれば、もっと説得力が出ると思う。
関連:
ウィキペディア - 正規社員の解雇規制緩和論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3..
関連エントリ:
八田達夫『ミクロ経済学』 終章「効率化政策と格差是正政策の両立」
http://mojix.org/2009/08/16/hatta_micro_kouritsu
鶴 光太郎「日本の労働市場制度改革」
http://mojix.org/2009/07/12/tsuru_roudou_sijou
解雇規制という「間違った正義」
http://mojix.org/2009/01/20/kaikokisei_wrong_justice
ニートの海外就職日記 - 解雇規制の撤廃とクソ労働環境の交わらない関係。
http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/blog-entry-294.html
<確かに現状では会社側からの解雇が制限されているので、労働市場が硬直化して、「入り難く、出難い(転職し難い)」社会が築かれている。その結果、過剰なまでの新卒至上主義(新卒カードw)が幅を利かせたり、年齢制限があったりで転職のハードルが高く、ブラック会社に捕まっても後先考えると動くに動けなかったりする。だからこそ淘汰されるべきクソ会社が淘汰されずにノウノウと図太く生き延びてるって一面はあるだろう>。
この部分はまったくその通り。
<これがもし解雇規制を撤廃して雇用の流動性を上げれば、「入りやすく、出やすい(転職しやすい)」社会が実現するんだろうけど、果たしてこれがクソ労働環境の改善やブラック会社の淘汰という一番肝心なポイントに直結するのかってのは実に怪しいんだよなw>。
たしかに、解雇規制を撤廃しても、ブラック会社をなくすことはできないだろう。しかし、雇用の流動性を上げれば、労働者が「脱出」しやすくなることは間違いない。するとブラック会社も労働力を維持・調達しにくくなるので、少なくともその数は減少するだろう。
解雇規制は、ブラック会社や長時間労働を助長するだけでなく、正規・非正規の雇用格差、新卒至上主義、採用における学歴・年齢・性別・職歴などの属性による差別、多重下請け構造の助長、といったさまざまな問題を生み出している。解雇規制をなくせば、こうした問題すべてが改善に向かう。それらをあえておこなう意味が薄くなるからだ。
<ネットを見てても、雇われてる側が解雇規制の撤廃を主張してるケースは稀で、大抵は経営者側が望んでるという印象しかない。会社がお荷物社員や邪魔者(当たり前の権利を強く主張する社員など)を自由にクビに出来るようになるだけで、クソ労働環境だけはしっかり残って、有給完全消化や定時退社なんて夢のまた夢のままって気がするんだけど。。。>
解雇規制の議論では、ここが最大のポイントだろう。ブログ主のクソ仕事さんに限らず、この「解雇規制の撤廃は、経営者にとって都合がいいだけだ」という考え方は、よく見かけるものだ。私はこの考え方、「労働者と経営者の利害は対立している」という把握の仕方こそが、問題を深めてしまっていると思う。
「解雇規制の撤廃は、経営者にとって都合がいいだけだ」という考え方は、「解雇規制は経営者の身勝手な解雇を抑えており、これが労働者にとって利益になっている」という考え方である。私はこの「解雇規制は労働者の利益になっている」という考え方は間違っており、これが不幸の始まりだと考えている。
解雇規制は一見したところ、たしかに「労働者の利益」のように見える。解雇を制限されるのは企業の側だけで、労働者の側には辞める自由があるからだ。
しかし、解雇を制限された企業は、新規の採用を抑制せざるをえない。企業の業績はつねに変動するから、業績の下降局面では人を減らす必要が生じる。業績に応じて人を増減させることを「調整」というが、正社員は解雇が困難なので「調整」できない。よって企業の労働力調達は、「調整」が可能な派遣や外注にシフトせざるをえず、これが正社員採用を減らす。
そして正社員を採用する場合も、採用失敗リスクを最小化するために、社会経験や専門性を持つ人材よりも、考え方が「まっさら」で給与も安く済む新卒を好む傾向が強まる。文句を言わずに会社に献身する「イエスマン」を養成したがるわけだ。この傾向が新卒至上主義を助長している。
また、すでに採用してしまった正社員の中には、仕事ができる人と仕事ができない人がいる。仕事ができない人をクビにできず、また「家で寝ていてくれ」というわけにも行かないので、無理やり「仕事」が生み出されたりする。仕事のできない人にも「仕事」があてがわれ、無理やりチームの一員になることで、全体の効率や士気は下がるだろう。特に、仕事ができない人が上司である場合はひどい。こうした非効率性や士気の低下が、仕事の総量自体の増加と、処理効率の低下を生み、長時間労働につながっている。
さらに、仕事ができる人と仕事ができない人で、給料や待遇の上ではそれほど差がつかないから、仕事ができる人は大きく割を食う。このように、日本の会社というのは仕事ができる人にとって、何重にも不条理なところがある。会社側もその不条理を理解していたとしても、仕事ができない人を解雇できないために、そうせざるをえない面がある。
長時間労働やさまざまな不条理に耐えなければならない正社員だが、しかし正社員はまだマシとも言える。解雇規制のために正社員採用が減っており、その採用も新卒偏重なので、新卒採用を逃すと二度と就職できないということが起きやすく、正規と非正規とのあいだにカベができてしまっている。これは待遇だけでなく、職務内容やキャリア形成、社会的・経済的な「信用」などさまざまな面で格差を生み出し、ほとんど「身分」と呼べるものになっている(「職業の「身分制度」が支える日本の「与信」」、「解雇規制、職業の「身分制度」、「与信」の関係」)。そしてこれこそが、正社員が長時間労働や不条理にも耐えて、正社員のイスにしがみつく理由である。いちど「転落」すれば、二度と戻れないという恐怖があるからだ。
このように、「解雇規制は労働者の利益になっている」どころか、さまざまなかたちで労働者を苦しめている。「解雇規制は労働者の利益になっている」という考え方は、単に間違っているだけでなく、上記のような問題を維持・強化する側に立ってしまっているのだ。解雇規制に賛成している人は、解雇規制を残したままで、これらの問題をどのように解決しうると考えているのか。
最近話題になっている製造業派遣の禁止なども、解雇規制とまったく同じ構図だ。この種の労働規制は、一見して「労働者の利益」のように思えるのだが、それは企業の負担を上げるので、雇用が海外に流出したり、すでに雇用している人の労働負担が増したりする。「労働者の利益」であったはずの労働規制が、失業者を増やしてしまい、長時間労働を加速してしまうわけだ。
結局のところ、「労働者と経営者の利害は対立している」という捉え方こそが、問題を深めているように思う。経営者を敵視して、「企業への規制を強化すれば、労働者の利益になる」と考えるのは、間違っている。企業を規制すれば、企業の負担が増し、それは企業の雇用方針や商品価格などに影響を与えるので、規制の「コスト」はけっきょく労働者にまで戻ってくる。「市場はつながっている」のだ。
なお、解雇規制をなくすメリットは、会社を「脱出」しやすくなるというだけではない。「なぜ日本ではブラック会社が淘汰されないのか 日本は雇用の流動性が低いから、労働者の価値が低い」にも書いたように、ブラック会社かそうでないかにかかわらず、会社は現在よりも社員の待遇を良くする必要が生じる。社員が「脱出」する自由を得れば、社員側に交渉力が生じるからだし、また会社側もリスクに対するバッファを少なくできるからだ。雇用の「流動性」が増せば、社員の「資産価値」は増すのだ。もちろん、解雇が自由になれば会社の競争力も増すはずなので、その「分け前」もあるだろう。私の感覚でいえば、解雇規制がなくなれば、給料が倍くらいになってもおかしくないと思う(もちろん、その一方で減給・解雇される人も出てくる)。
ブラック会社を生んでいる要因について、クソ仕事さんはこう書いている。
<経営者側に解雇規制の撤廃というオプションを与えるんなら、それと同時に新卒至上主義や年齢制限も撤廃しないとフェアじゃないだろう。まあ、でも結局のところ、クソ労働環境が改善されない一番大きな原因は解雇規制などとは全く別のところにある非効率の極みとも言える「奴隷型顧客満足第一主義w」や「自己満レベルの完璧主義w」だったり、飲まないとまともにコミュニケーションも取れないw「飲み二ケーション」や、「我慢や忍耐が美徳」といったDNAレベルにまで刷り込まれている日本人の仕事観に因るところが大きいんだろうけど。だからこそクソ労働環境の問題は解雇規制だけ緩めて解決するとはとても思えないんだよな。。。>
<やっぱクソ労働環境に1人で刃向かっても異端児扱いされて村八分に遭うか、下手すりゃクビ切られるのがオチ。そういった意味では、地道な啓蒙活動wで社畜の目を覚まし、じわじわと世論を高めていくのがbestだろう>。
新卒至上主義や年齢制限は、国の制度でなく、企業の慣行である。これこそ解雇規制が助長している「悪習」であり、解雇規制をなくせば、こんなことをしても有利にならないので、これも消滅に向かうだろう。
<DNAレベルにまで刷り込まれている日本人の仕事観>というのも、違うように思う。山岸俊男の『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)を読むと、いわゆる日本人的な気質のかなりの部分は、実は「制度」によりかたちづくられたものであり、その「制度」のなかでの「生き残り戦略」としてできあがった、ということがよく理解できる。つまり「気質」というよりも「打算」なのだ。
解雇規制というのは、会社に対して「家族的な一体感」を強制するものだ。そこでは家族のように支えあうことが求められており、「仕事ができないから解雇」というのは許されないわけだ。だから逆に、社員にはオンもオフもない全人的な献身が求められるし、残業や休日出勤も当然ということになる。会社での「飲みニケーション」や「我慢や忍耐」といったものは、日本人の気質という以上に、このような家族的なつながり・献身の表現であり、家族的な「保護」を受けるための「コスト」なのだ。
会社に対して、このように家族的な濃密さを半ば強制しているのが解雇規制だが、仮に解雇規制がなくなったとしても、会社がみずから終身雇用や家族的な経営を選ぶのはまったく問題ない。実際、終身雇用のほうが良いと考えている経営者はたくさんいる。問題なのは、解雇規制によってすべての会社に終身雇用を半ば強制し、経営の自由を奪っているということだ。経営の自由が奪われれば、「市場はつながっている」ので、そのコストはさまざまなかたちで労働者にまで回ってくる。長時間労働もそのひとつなのだ。
クソ仕事さんの見方・アプローチは全体として、日本の経営者や「社畜」という他者グループをまとめて「クソ」と見なす、という「精神論」を超えておらず、他者グループのそのような行動を生み出す要因や社会構造を考える「制度論」の観点がないように思える。これについては以前、次のエントリでも書いた。
「精神論」より「制度論」を
http://mojix.org/2009/07/19/seishinron_seidoron
<日本の会社がオーバーワーク気味なのはその通りだと思うのだが、それは単に経営者が悪いという側面だけでなく、日本の強い規制と高い税金によって、会社側も「そうせざるをえない」側面や、社員側も転職がむずかしいために、「そうせざるをえない」側面もある。これを全部経営者のせいにしてしまうのは、一種の「精神論」なのであって、それは「すぐに辞めてしまう若者は根性なしだ」と決めつけるような「精神論」と同じくらい、粗雑でピント外れな議論だと思う>。
<「精神論」をいくらやっていても問題は解決できない。必要なのは「制度論」なのだ>。
<もしクソ仕事さんが、「日本の会社は徹底的に規制せよ」というのであれば、それは「制度論」になる。私のほうは、「規制をなくせ」という「制度論」なのだから、完全に反対になるが、それはそれで議論になる>。
<「経営者が悪い」「社員が悪い」という話は、大体「精神論」なのだ。なぜならば、経営者も社員も民間人だから、他者に「強制」ができないからだ。これに対して、政府は「強制」できる唯一の存在で、規制と税金をいくらでも民間に押し付けることができる。だから、その「強制」の内容が妥当なのかどうかが、きわめて重要になる>。
一般には精神論も無意味ではないが、この雇用問題に関しては、精神論はあまり意味がないと思う。なぜならば、雇用を生み出すのは企業であり、その企業の行動を制約しているのが解雇規制という制度だからだ。雇用がどれくらい出てくるか、そしてどのような人が採用されるかが、この制度に大きく制約されている。この現実を前にして、労働者の意識を変革するといった精神論的なアプローチは、まったく無意味ではないにしても、問題の原因を解消できないという意味で「無力」だろう。
私が危惧しているのは、精神論だけならばまだ「無力」で済むが、それが制度論に転化したとき、「規制強化」の方向になりかねないことだ。現状の解雇規制だけでもひどいのに、民主党政権になったいま、製造業派遣を禁止する、最低賃金を上げる、といった規制強化の方向がますます見えている。これらの規制強化の根底にはすべて、「労働者と企業の利害は対立している」という誤った捉え方がある。
クソ仕事さんは問題提起の姿勢自体はいいと思うのだが、経営者を<ヤツら>と書いていることからもわかるように、この「労働者と経営者の対立」という図式にとらわれているのが残念だ。これは典型的な「経営者ワルモノ論」であり、経営に対する無知と、仕事への不満が合体して、経営者という「悪玉」こそすべての問題要因である、と見なしてしまう一種の「陰謀論」である。この「経営者ワルモノ論」は、「悪玉」たる企業を「お上」が懲らしめること、つまり「規制強化」を支持してしまいやすい(「「分断」しているのは誰か? 「経営者ワルモノ論」の位置づけ」)。
企業を規制で不自由にしても、労働者は決して自由にならない。市場はつながっており、企業のコスト上昇は、社会全体にひろがるのだ。社会にひろがったコスト上昇でもっとも痛手を受けるのは、もっとも弱い者である。企業という「悪玉」を懲らしめたつもりが、その「懲罰」は社会全体にいきわたり、弱者こそがその「懲罰」にもっとも苦しむのだ(「日本の賃貸住宅ではなぜ保証人を要求されるのか 「保護」がむしろ「弱者」を生む日本の構造」)。
私のような規制緩和論者を「企業の味方」「資本家の手先」などと評する人がいるが、そういう見方こそが「規制強化」の流れを強めてしまい、「機会費用」を上昇させて社会の「富」を毀損し、経済の足を引っぱり、結果として弱者を苦しめてしまっているのだ。規制強化論者は、規制強化のコストがどのように伝播するかを考えず、目先の「正義」にとらわれている。
経済の動きを理解しない「正義」は、正義の名に値しないどころか、社会を破滅させかねない。そのような「正義」が、最近ますます増えつつあると感じる。「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉を思い起こす機会が、少しずつ増えている。
以上のように、日本の雇用問題については、私は制度論(「制度を変える」アプローチ)こそが核心であり、精神論(「精神を変える」アプローチ)では問題を解決できないと思っている。しかし、あえて精神論的な観点(制度をいじらないで、精神を変える)で見るならば、経営者や「社畜」に対して変化を求めるのではなく、
1)クソ仕事さんのように海外に脱出する
2)会社と待遇を交渉できる実力をつける(「辞めます」という交渉カードが効く立場になる)
3)自分で起業する
といった、「自分を変える」という方向ならば、意味があると思う。実際、日本の制度はそうかんたんに変わらないので、自分の人生を改善するほうが、現実的には重要な話だろう。制度を変えるのに比べれば、自分を変えるほうがかんたんだ。
クソ仕事さんや、クソ仕事さんに共感する人にはぜひ、クソではない会社を起業して、その手腕を見せてほしい。その上で、他の日本の会社を「クソだ」と斬り捨てるのであれば、もっと説得力が出ると思う。
関連:
ウィキペディア - 正規社員の解雇規制緩和論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3..
関連エントリ:
八田達夫『ミクロ経済学』 終章「効率化政策と格差是正政策の両立」
http://mojix.org/2009/08/16/hatta_micro_kouritsu
鶴 光太郎「日本の労働市場制度改革」
http://mojix.org/2009/07/12/tsuru_roudou_sijou
解雇規制という「間違った正義」
http://mojix.org/2009/01/20/kaikokisei_wrong_justice