2009.10.08
亀井金融相のメチャクチャな経団連批判 「ワルモノを懲らしめる」という「勧善懲悪」思考では、経済問題は解決しない
毎日jp - 亀井金融担当相:「家族間の殺人事件増加」で経団連を批判(2009年10月5日 21時14分)
http://mainichi.jp/life/today/news/20091006k0000m020085000c.html

<亀井静香金融・郵政担当相は5日、東京都内で行われた講演会で、「日本で家族間の殺人事件が増えているのは、(大企業が)日本型経営を捨てて、人間を人間として扱わなくなったからだ」と述べ、日本経団連の御手洗冨士夫会長に「そのことに責任を感じなさい」と言ったというエピソードを紹介した。御手洗会長は「私どもの責任ですか」と答えたという。
 会員制情報誌「内外ニュース」主催の講演会で述べた。亀井担当相は御手洗会長との会談時期については明らかにしなかったが、関係者によると、8月の衆院選前とみられる。
 亀井担当相は講演で「昔の大企業は苦しい時に内部留保を取り崩して下請けや孫請けに回した。今はリストラだけをしている」と話し、昨秋以降の経済危機で、派遣契約解除などをした大企業の批判を展開。「(大企業が)小泉改革に便乗して日本型経営を捨てたことが社会をおかしくした。責任を感じなければだめだ」と企業の経営姿勢や経団連を批判した>。

asahi.com - 親族間の殺人、亀井金融相「大企業に責任」 発言が波紋(2009年10月7日7時1分)
http://www.asahi.com/politics/update/1007/TKY200910060446.html

<亀井静香金融相が、親族間の殺人事件と大企業の経営姿勢を結びつけるような発言をし、波紋を呼んでいる。鳩山由紀夫首相は6日、「言葉が過ぎたのかもしれない」とくぎを刺した。亀井氏は日本銀行の金融支援策の打ち切り議論に絡んでも「時々日銀は寝言みたいなことを言う」と述べており、その発言が政権内でも問題視されている。
 亀井氏は5日、内外ニュースの講演会で、日本経団連の御手洗冨士夫会長と以前会った際に、労働者を大切にする日本的な経営を捨てたとして大企業を批判したことを紹介した。「ため込んだ内部留保をそのままにしといて、リストラをやっている。人間を人間扱いしないで、自分たちが利益を得る道具として扱っている」と指摘。立件された国内の殺人事件の約半分が、親子や兄弟、夫婦といった親族間で起きていることを引き合いに、経営者側に「責任がある」とした。
 亀井氏は6日の閣議後会見で真意を聞かれた際も、「改革と称する極端な市場原理、市場主義が始まって以来、家族の崩壊、家族間の殺し合いが増えてきた。そういう風潮をつくったという意味で、(経団連に)責任がある」と発言を撤回しなかった>。

亀井金融相の暴走が止まらない。「家族間の殺人事件」が増えているのは、大企業がリストラを進めているからだという理屈で、経団連や大企業を批判したという。「家族間の殺人事件」が実際に増えているかどうかに関係なく、メチャクチャな批判だ。まさに、文字通りの「経営者ワルモノ論」である。

モラトリアム案という「制度論」に比べれば、これは亀井金融相の個人的信念を表明したに過ぎないので、その点では直接的な影響は少ないだろう。どう見ても「トンデモ」発言であり、ほとんど誰もマトモに取り合わないという意味では、逆に救われている面もある。しかし、モラトリアム案に続いて、亀井金融相の「極左」的なスタンスがいっそう明確になったわけで、国の金融に関する最高責任者がこういう信念を持っているというのは、大いに問題である。亀井金融相の考え方は、市場原理や市場主義を攻撃する左翼的な見方では鳩山論文と同様だが、それを「人殺し」呼ばわりするところが「極左」的だ。

社会を構成する人々を「労働者」と「資本家」に分けて、労働者を「被害者」、資本家を「加害者」と考えるのが、左翼の典型的な見方である。「極左」はその見方をいっそう強めて、「資本家」を「犯罪者」のように見なし、よってそれを「裁く」ことは正義である、とすら考える。まさにテロリスト的な発想だ。

テロリスト的な発想の人間が権力を得て、独裁者になったのがヒトラーである。ヒトラーは自分の「正義」に基づいて、「資本家」たるユダヤ人を「ワルモノ」と決めつけて、殺してしまうわけだ。そのヒトラーも、最初から「わかりやすい悪人」として強引に権力を得たのではなく、むしろ「弱者を思いやる救世主」として支持を集め、正当な手続きで権力を得ている。ナチスの悲劇を繰り返さないためには、権力を過度に集中させないことと、特定のグループを「ワルモノ」と決めつけるような思考様式の危険性に敏感になる必要がある。

亀井金融相はもちろん、銀行や大企業を「粛清」しようとは考えていないと思うが、少なくとも「懲らしめたい」と考えていることは伝わってくる。チェ・ゲバラに心酔し、連合赤軍にすら一定の評価をしたというその「極左」的な正義感と、国の大臣という権力ある立場を考え合わせると、亀井金融相には「テロリストが権力を持った独裁者」のような要素があることは否定できないと思う。少なくとも、ジンバブエのムガベを思わせることは確かだ。

亀井金融相は決して「わかりやすい悪人」ではなく、むしろ「弱者」を思いやる「正義の人」であることは疑いない。しかしその「正義」観は、あまりに単純な「勧善懲悪」図式、世の中の人を「善玉・悪玉」に二分するような思考様式に基づいているように思う。モラトリアム案や今回の経団連批判からは、銀行や大企業は「弱者」をいじめる「ワルモノ」であり、その「ワルモノ」を「懲らしめる」ことで経済問題を解決しようとする発想が伝わってくる。この「ワルモノを懲らしめる」という思考様式は、警察ならそれでもいいかもしれないが、経済問題はこれでは解決しないし、むしろ問題を深めてしまう。

今回の亀井金融相の経団連批判は、「家族間の殺人事件増加」の責任を経団連や大企業に押し付けているところが「トンデモ」だが、その信念のベースになっている考え方自体は、左翼的な発想としてありふれたものである。つまり、経団連や大企業こそが「ワルモノ」で、問題を生んでいる要因だから、「ワルモノを懲らしめる」ことで問題は解決する、と考えている人は少なくない。今回の亀井発言を堂々と擁護することは憚られるにしても、心の中では共感しているという人は少なくないはずだ。

雇用や経済の問題を、規制をどんどん増やしていくことで解決しようとする「規制脳」は、亀井金融相のような「ワルモノを懲らしめる」発想と根が同じである。「規制脳」や「ワルモノを懲らしめる」アプローチの特徴は、「弱者を救済するために、強者を規制する」というものだ。しかし実際は、「強者」を規制しても「弱者」は救済されないのであって、むしろ「弱者」をいっそう苦しめることになりやすい。

市場取引とは互いの合意によって成立するもので、互いにメリットがあると思うから取引するのであり、メリットがないなら取引しない。よって、市場取引で成り立つ民間経済から生じる「強者」と「弱者」というのは、「強者が弱者から奪った」結果ではない。「強者」はより多くの価値を生産し、その結果としてより多くの対価を得たことで「強者」になったのだ。にもかかわらず、「強者」を「ワルモノ」扱いして、「強者」に不利益を与えたり、「強者」を罰するようなことを続ければ、「強者」は価値の生産をやめたり、その市場から離脱していき、市場は縮小していく。

こうした市場のメカニズムを理解すれば、「弱者を救済するために、強者を規制する」というのは間違いだということがわかる。それは弱者を救済できないばかりか、市場全体を縮小させて、弱者はいっそう苦しむことになる。

「弱者を救済するために、強者を規制する」という発想は、亀井金融相の「ワルモノを懲らしめる」という「勧善懲悪」思考と基本的に同じ考え方であり、五十歩百歩である。人間をほんとうに動かすには、規制や禁止というマイナスの動機づけでなく、興味を持ったり、やりたくなるようなプラスの動機づけが必要だ。経済とは結局のところ人間でできているので、経済を動かすコツも同じである。経済の「制度設計」とは、いわば「ゲームデザイン」である。良いゲームデザインであれば、プレイヤーはもっとゲームをしたいと思うし、悪いゲームデザインであれば、プレイヤーはもうゲームをしたくないと思う。

大きな問題を引き起こすのは、「ワルモノ」ではなくて「制度」である。社会レベルの問題を引き起こすのは「人間」ではなくて、人間をふるまわせている「構造」なのだ。民間経済の「強者」は、いくら強くても「プレイヤー」に過ぎず、強制力を持っていないので、市場取引によって富を形成するしかない。これに対して政府は、規制と税金という強制力を持っており、民間の人や会社から強制的に富を奪うことができる。つまり、強制力を持っていない民間の「プレイヤー」は、個別の犯罪を除けば、市場というものの原理からいって「ワルモノ」になりえない。社会レベルの問題を引き起こす「ワルモノ」になりえるのは、規制と税金という強制力を持ち、民間から富を奪うことができる政府だけなのだ。

「強者」という民間のプレイヤーを「ワルモノ」と考える左翼的な見方の弊害は、

1)強制力を持たないプレイヤーである「無実」の民間人を「ワルモノ」と見なす点で、一種の「冤(えん)罪」を生み出している
2)強制力を持つ唯一の存在である政府こそ「ワルモノ」でありうる、という点から目を逸らせてしまう

という2点だ。民間の「強者」を「ワルモノ」と見なし、政府がそれを「懲らしめる」ことを期待するような「お上」頼みの発想が、政府により大きな権力を与え、「大きな政府」を作り出す。

政府は「プレイヤー」ではなく、強制力を持つ制度設計者なので、市場原理による圧力や淘汰を受けず、その強制力を使って政府自身が肥大化していく傾向が強い。「大きな政府」の支持者は、政府が「善政」をおこなうことを前提にしているが、政府が「悪政」をしない保証はどこにもないし、市場原理にさらされない政府の「悪政」を食い止めるのはむずかしい。「善政」を祈りながら権力を一箇所に集中させる「大きな政府」よりも、あらかじめ権力を分散し、監視もコントロールもしやすくする「小さな政府」というアーキテクチャのほうが優れている。

「大きな政府」の支持者は、政府の「悪政」をしばしば批判するが、「大きな政府」というアーキテクチャ自体は疑っていない。「小さな政府」の支持者は、政府は「悪政」に陥りやすく、「善政」であった場合にすら民間の効率を超えることはできないと考えるので、「小さな政府」というアーキテクチャを選ぶ

亀井金融相の推し進める方向は、完全に「大きな政府」である。銀行や大企業という民間のプレイヤーが自由に行動する裁量を奪って、政府のコントロールを強めていく「計画経済」的な方向だ。その亀井金融相にいまのポジションと権限を与えているのは鳩山内閣であり、鳩山内閣自体にこの「大きな政府」路線、「計画経済」志向が含まれている(「鳩山論文」はおおむねこの方向だ)。いっぽう鳩山内閣には、前原国交相の「八ツ場ダム中止」に象徴される「小さな政府」の方向もあり、混乱している。何が日本の問題であり、どうやれば経済を回復できるかについて、鳩山内閣では基本方針が確立していないように見える。鳩山首相が政策的なディレクションをおこなっておらず、「友愛」といった抽象的な理念しか語らないので、亀井金融相の「大きな政府」路線から前原国交相の「小さな政府」路線まで、矛盾した方向が共存している。


関連エントリ:
「法学的思考」と「経済学的思考」
http://mojix.org/2009/10/06/hougaku_keizaigaku
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