日本の問題は「市場の失敗」でなく「政府の失敗」
金融危機の原因についてはいろいろな見方があるようだが、サブプライム・ローンを基にしたハイリスクで複雑な金融商品が大量に売られ、それに対して不当に高い格付けがされていた、というのがよく見かける説明だ。これはいわゆる「情報の非対称性」に起因する「市場の失敗」だと言えるだろう。
このために、行き過ぎた自由市場主義に対する反省が世界的に起きたわけだが、この「反省」は、日本に対してはむしろ悪いほうに作用してしまった。日本はもともと市場に対する規制が強く、「自由市場」はむしろ不足している。もっと自由化すべき未熟な段階にあるのに、金融危機を引き起こした「市場の失敗」がクローズアップされすぎた結果、むしろ誤った規制強化やバラマキといった「政府の失敗」を加速している。日本はアメリカと「症状」が異なるのに、同じ「処方」がされてしまい、「病状」がよけい悪化したようなものだ。
日本の重大な問題の多くは、「市場の失敗」でなく「政府の失敗」が引き起こしている。いわゆる「格差」についても、競争が格差をもたらしているという以上に、「競争の不足」が格差をもたらしている。その核心が雇用問題だ。正規雇用・非正規雇用の「格差」は、労働者の自由な競争によって生まれているのではなく、むしろ競争が通用しない「身分制度」によって生まれており、これは正社員の解雇を難しくしている国の制度によって支えられている。労働者の保護を、市場取引を制約するという誤った方法でおこなっているために、競争を封じ込めてしまっている上に、市場自体も縮小させているのだ。市場は制約せずに、市場の外にセーフティネットを作るのが正しい方法である。
経済学者の八田達夫氏が指摘しているように、<目の前にいるかわいそうな人の既得権>を守るために<真の社会的弱者に対して大きな犠牲を払わせる>という国の誤った判断が、諸悪の根源である。「既得権を守るために、既得権のない人を犠牲にする」というこの不公正(アンフェア)な仕組みこそ、日本の多くの問題に共通する「構造」だ。この既得権は国の制度や判断によって維持されており、これ自体がそもそも不公正(アンフェア)で反競争的であるのに加えて、これによって市場取引が減り、日本経済が縮小しているのだ。ここで生じているコスト(犠牲)の不公正な配分と、規制が生む莫大な「機会費用」による社会全体の「富」の毀損は、自由な市場競争が生む「格差」など比較にならないくらい、途方もない「政府の失敗」である。
いまアメリカでは医療保険改革がさかんに議論されており、政府の役割を強めるべきかどうか、国を二分するほどの激論になっているようだ(末尾の関連にあるFERMATのエントリ参照)。リーマン・ブラザーズ破たんのときもそうだったが、アメリカでは「政府の失敗」を警戒する自由主義、いわゆる保守が比較的強いので、こういう展開になる。アメリカは「自由」「独立」を最大の価値とする国なので、何かを「国に任せる」という発想は、少なくとも多数派ではない。
アメリカは自由市場を重視し、政府はできるだけ介入しないというのが基本的な態度で、「政府の失敗」を嫌っている。人類の悲劇は大抵、権力の集中した政府が引き起こす「政府の失敗」なので(例)、それを警戒しているのもあるだろうし、悲劇まで行かなくても、余計な政府介入は経済的にも非効率である。そもそも、政府介入は個人の自由と衝突するので、自由を重視するイデオロギーを採るならば、政府の役割は必然的に小さくなるわけだ。
しかし今回の金融危機が起きて、アメリカでもこれはさすがに「市場の失敗」であるということがほぼ合意され(「政府の失敗」の側面もないわけではない)、金融について規制が強められているというのが現状だろう。医療保険改革も、国の介入を強めるという意味ではこの延長上にある。「この調子でどんどん政府の役割を増やすと、社会主義になるのではないか?」という懸念から、大いに議論になっているわけだ。「自由の国アメリカ」にとって、これは国の「アイデンティティ」に関わる問題だろう。
これに対して、日本では「政府の失敗」に対する警戒が少なく、なんでも「国に任せる」という発想がむしろ基本だ。政府もそれをわかっていて、強い規制や高い税金をまんまと維持している。もちろん、日本でも政治家や役人は毎日のように批判されているが、概して「もっとちゃんとやれ」という批判に過ぎず、「国に任せる」ということ自体はあまり疑われない。国民の考え方が、基本的に「国任せ」なのだ。だから批判にしても、当事者性を欠いた「外野のヤジ」みたいなところがあり、自分が責任を引き受けるという話になると、とたんに強い拒絶反応を示す。
民主党の圧勝が予想されている今回の総選挙で、自民党と民主党のあいだに本質的な「対立軸」がないのも、この国民の「国任せ」体質が一因だと思える。「国任せ」という枠組みから出ない限り、どう規制するか、どこにバラマキするかといった小さい違いしか出てこない。経済成長の観点から見れば、「規制緩和」「バラマキをやめる」という以外に選択肢がないのは明らかだが、これは「小さな政府」の方向であり、ちょうど「国任せ」の反対である。いまの自民党や民主党もたしかに情けないが、基本的には国民自身がこの「国任せ」という発想から脱却しておらず、いまの自民党と民主党の「対立軸」を欠いたポジショニングは、そのような国民意識の反映であるようにも思える。アメリカでは「国に任せるかどうか」が議論の分かれ目になるが、日本では「国に任せる」ことが前提になってしまっているのだ。
蔵研也氏は著書『リバタリアン宣言』(2007年2月発行、朝日新書)の中で、この「国任せ」の考え方を「クニガキチント」と呼んでいる(第1章「日本の政治の現状とリバタリアニズム」末尾「クニガキチントの罠」)。日本人がこの「クニガキチント」を脱却し、「責任もないが自由もない」という「子供扱い」でなく、「責任もあるが自由もある」という「大人扱い」を欲するようになれば、日本の政治ももっと成熟し、経済も再び成長路線に乗ってくるのではないか。成熟した国の経済は、国の統制やバラマキでなく民間が主導するものであり、「クニガキチント」は本質的に経済成長と対立するものだ。日本は先進国と言われるが、その制度や精神はいまだに途上国的なところがあり、「国民は政府の言うとおりに動くべし」という中央集権的な考え方を、政府ばかりか国民も支持しているようなところがある。政府が国民を子供扱いする「パターナリズム」に、国民の側も安住しているのだ。
ネットやブログによって、若い世代は政治について考えたり、意見を発する機会が急激に増えている。特に今回の「政権交代」選挙では、2005年の「郵政」選挙時にも劣らぬほど、政治に関する大量の意見が飛び交っている印象だ。これほどの「政治意識の高まり」は、私は生まれてこのかた見たことがない。学生運動が活発だった頃以来、実に40年ぶりくらいに、日本の政治意識は高まりつつあるのではないだろうか。「政治について考え、意見を発する」ことはきわめて重要であり、これが日本の政治を少しずつ変えていくだろう。少なくとも、マスコミの情報を丸呑みするしかなかった時代に比べれば、政治に関する大量かつ多様な情報に接することのできるいまの時代は、はるかに健全であり、学習機会も豊富だ。
日本の政治を変えるには、投票に行くことも重要だが、「政治について考え、意見を発する」ことは、それ以上に重要かもしれない。今回の総選挙でも明らかなように、「世論」は実際の投票日より前に決まってしまうので、本質的な決定要因は投票そのものというよりも、どのような「世論」が形成されるのか、そこが焦点になる。この世論形成に対するマスコミの独占的な影響力が落ちてきて、ネットの影響力が増しているというのがいまの状況であり、その点だけでも大きな進歩だろう(バカげた公職選挙法が改正されて、ネット活用も自由になれば、さらに大きな進歩だ)。このような環境で育ち、政治について自分の意見を堂々と述べることが普通であるような若い世代が出てくる頃には、日本の政治はきっと良くなっているだろう。
関連:
FERMAT - ヘルスケア改革のパーマネント・キャンペーン化と“Whole Foods Boycott”
http://www.defermat.com/journal/2009/000522.php
Whole Foods Marketへのボイコット運動を例に、ヘルスケアの議論がアメリカの国論を二分している現状を紹介。
蔵研也『リバタリアン宣言』
http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/libertarian%20manifest.htm
新書とほぼ同じ内容がネットで読める。先日finalventさんも紹介していたが、第1章「日本の政治の現状とリバタリアニズム」は、2009年のいま読むと、むしろホットな内容かもしれない。
関連エントリ:
「個人」に責任を帰属させず、「空気」のなかに責任を拡散してしまう日本
http://mojix.org/2009/08/13/kuuki_sekinin
八田達夫『ミクロ経済学』 終章「効率化政策と格差是正政策の両立」
http://mojix.org/2009/08/16/hatta_micro_kouritsu
若者はネットで日本の政治を変えられる
http://mojix.org/2009/07/22/wakamono_net_seiji
日本をダメにしたのは誰か
http://mojix.org/2009/05/15/nihon_dame
このために、行き過ぎた自由市場主義に対する反省が世界的に起きたわけだが、この「反省」は、日本に対してはむしろ悪いほうに作用してしまった。日本はもともと市場に対する規制が強く、「自由市場」はむしろ不足している。もっと自由化すべき未熟な段階にあるのに、金融危機を引き起こした「市場の失敗」がクローズアップされすぎた結果、むしろ誤った規制強化やバラマキといった「政府の失敗」を加速している。日本はアメリカと「症状」が異なるのに、同じ「処方」がされてしまい、「病状」がよけい悪化したようなものだ。
日本の重大な問題の多くは、「市場の失敗」でなく「政府の失敗」が引き起こしている。いわゆる「格差」についても、競争が格差をもたらしているという以上に、「競争の不足」が格差をもたらしている。その核心が雇用問題だ。正規雇用・非正規雇用の「格差」は、労働者の自由な競争によって生まれているのではなく、むしろ競争が通用しない「身分制度」によって生まれており、これは正社員の解雇を難しくしている国の制度によって支えられている。労働者の保護を、市場取引を制約するという誤った方法でおこなっているために、競争を封じ込めてしまっている上に、市場自体も縮小させているのだ。市場は制約せずに、市場の外にセーフティネットを作るのが正しい方法である。
経済学者の八田達夫氏が指摘しているように、<目の前にいるかわいそうな人の既得権>を守るために<真の社会的弱者に対して大きな犠牲を払わせる>という国の誤った判断が、諸悪の根源である。「既得権を守るために、既得権のない人を犠牲にする」というこの不公正(アンフェア)な仕組みこそ、日本の多くの問題に共通する「構造」だ。この既得権は国の制度や判断によって維持されており、これ自体がそもそも不公正(アンフェア)で反競争的であるのに加えて、これによって市場取引が減り、日本経済が縮小しているのだ。ここで生じているコスト(犠牲)の不公正な配分と、規制が生む莫大な「機会費用」による社会全体の「富」の毀損は、自由な市場競争が生む「格差」など比較にならないくらい、途方もない「政府の失敗」である。
いまアメリカでは医療保険改革がさかんに議論されており、政府の役割を強めるべきかどうか、国を二分するほどの激論になっているようだ(末尾の関連にあるFERMATのエントリ参照)。リーマン・ブラザーズ破たんのときもそうだったが、アメリカでは「政府の失敗」を警戒する自由主義、いわゆる保守が比較的強いので、こういう展開になる。アメリカは「自由」「独立」を最大の価値とする国なので、何かを「国に任せる」という発想は、少なくとも多数派ではない。
アメリカは自由市場を重視し、政府はできるだけ介入しないというのが基本的な態度で、「政府の失敗」を嫌っている。人類の悲劇は大抵、権力の集中した政府が引き起こす「政府の失敗」なので(例)、それを警戒しているのもあるだろうし、悲劇まで行かなくても、余計な政府介入は経済的にも非効率である。そもそも、政府介入は個人の自由と衝突するので、自由を重視するイデオロギーを採るならば、政府の役割は必然的に小さくなるわけだ。
しかし今回の金融危機が起きて、アメリカでもこれはさすがに「市場の失敗」であるということがほぼ合意され(「政府の失敗」の側面もないわけではない)、金融について規制が強められているというのが現状だろう。医療保険改革も、国の介入を強めるという意味ではこの延長上にある。「この調子でどんどん政府の役割を増やすと、社会主義になるのではないか?」という懸念から、大いに議論になっているわけだ。「自由の国アメリカ」にとって、これは国の「アイデンティティ」に関わる問題だろう。
これに対して、日本では「政府の失敗」に対する警戒が少なく、なんでも「国に任せる」という発想がむしろ基本だ。政府もそれをわかっていて、強い規制や高い税金をまんまと維持している。もちろん、日本でも政治家や役人は毎日のように批判されているが、概して「もっとちゃんとやれ」という批判に過ぎず、「国に任せる」ということ自体はあまり疑われない。国民の考え方が、基本的に「国任せ」なのだ。だから批判にしても、当事者性を欠いた「外野のヤジ」みたいなところがあり、自分が責任を引き受けるという話になると、とたんに強い拒絶反応を示す。
民主党の圧勝が予想されている今回の総選挙で、自民党と民主党のあいだに本質的な「対立軸」がないのも、この国民の「国任せ」体質が一因だと思える。「国任せ」という枠組みから出ない限り、どう規制するか、どこにバラマキするかといった小さい違いしか出てこない。経済成長の観点から見れば、「規制緩和」「バラマキをやめる」という以外に選択肢がないのは明らかだが、これは「小さな政府」の方向であり、ちょうど「国任せ」の反対である。いまの自民党や民主党もたしかに情けないが、基本的には国民自身がこの「国任せ」という発想から脱却しておらず、いまの自民党と民主党の「対立軸」を欠いたポジショニングは、そのような国民意識の反映であるようにも思える。アメリカでは「国に任せるかどうか」が議論の分かれ目になるが、日本では「国に任せる」ことが前提になってしまっているのだ。
蔵研也氏は著書『リバタリアン宣言』(2007年2月発行、朝日新書)の中で、この「国任せ」の考え方を「クニガキチント」と呼んでいる(第1章「日本の政治の現状とリバタリアニズム」末尾「クニガキチントの罠」)。日本人がこの「クニガキチント」を脱却し、「責任もないが自由もない」という「子供扱い」でなく、「責任もあるが自由もある」という「大人扱い」を欲するようになれば、日本の政治ももっと成熟し、経済も再び成長路線に乗ってくるのではないか。成熟した国の経済は、国の統制やバラマキでなく民間が主導するものであり、「クニガキチント」は本質的に経済成長と対立するものだ。日本は先進国と言われるが、その制度や精神はいまだに途上国的なところがあり、「国民は政府の言うとおりに動くべし」という中央集権的な考え方を、政府ばかりか国民も支持しているようなところがある。政府が国民を子供扱いする「パターナリズム」に、国民の側も安住しているのだ。
ネットやブログによって、若い世代は政治について考えたり、意見を発する機会が急激に増えている。特に今回の「政権交代」選挙では、2005年の「郵政」選挙時にも劣らぬほど、政治に関する大量の意見が飛び交っている印象だ。これほどの「政治意識の高まり」は、私は生まれてこのかた見たことがない。学生運動が活発だった頃以来、実に40年ぶりくらいに、日本の政治意識は高まりつつあるのではないだろうか。「政治について考え、意見を発する」ことはきわめて重要であり、これが日本の政治を少しずつ変えていくだろう。少なくとも、マスコミの情報を丸呑みするしかなかった時代に比べれば、政治に関する大量かつ多様な情報に接することのできるいまの時代は、はるかに健全であり、学習機会も豊富だ。
日本の政治を変えるには、投票に行くことも重要だが、「政治について考え、意見を発する」ことは、それ以上に重要かもしれない。今回の総選挙でも明らかなように、「世論」は実際の投票日より前に決まってしまうので、本質的な決定要因は投票そのものというよりも、どのような「世論」が形成されるのか、そこが焦点になる。この世論形成に対するマスコミの独占的な影響力が落ちてきて、ネットの影響力が増しているというのがいまの状況であり、その点だけでも大きな進歩だろう(バカげた公職選挙法が改正されて、ネット活用も自由になれば、さらに大きな進歩だ)。このような環境で育ち、政治について自分の意見を堂々と述べることが普通であるような若い世代が出てくる頃には、日本の政治はきっと良くなっているだろう。
関連:
FERMAT - ヘルスケア改革のパーマネント・キャンペーン化と“Whole Foods Boycott”
http://www.defermat.com/journal/2009/000522.php
Whole Foods Marketへのボイコット運動を例に、ヘルスケアの議論がアメリカの国論を二分している現状を紹介。
蔵研也『リバタリアン宣言』
http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/libertarian%20manifest.htm
新書とほぼ同じ内容がネットで読める。先日finalventさんも紹介していたが、第1章「日本の政治の現状とリバタリアニズム」は、2009年のいま読むと、むしろホットな内容かもしれない。
関連エントリ:
「個人」に責任を帰属させず、「空気」のなかに責任を拡散してしまう日本
http://mojix.org/2009/08/13/kuuki_sekinin
八田達夫『ミクロ経済学』 終章「効率化政策と格差是正政策の両立」
http://mojix.org/2009/08/16/hatta_micro_kouritsu
若者はネットで日本の政治を変えられる
http://mojix.org/2009/07/22/wakamono_net_seiji
日本をダメにしたのは誰か
http://mojix.org/2009/05/15/nihon_dame