2010.10.28
「弱者を甘やかす」ことと、「弱者を成長させる」ことは違う
「弱者を甘やかす」ことと、「弱者を成長させる」ことは違う。

「弱者を甘やかすな」と言うと、「弱者を見捨てるのか」と反論する人がいる。
こういう人は、「弱者を甘やかす」ことと、「弱者を成長させる」ことの区別がついていない。

「弱者を甘やかすな」という意見は、大抵の場合、「弱者は見捨ててしまえ」という意味ではないと思う。
むしろ、「弱者を甘やかす」ことは、「弱者を成長させる」ことにならず、かえってその反対になってしまう、ということを危惧していると思う。

「弱者を成長させる」ために必要なことは何か。それは「チャレンジ」だ。
いまの自分を超えようとする「チャレンジ」によって、人間は成長していく。
これは弱者に限らず、強者であっても同じだろう。
それぞれの人に、その人なりの「チャレンジ」がある。その「チャレンジ」の繰り返しで、人間は成長する。

「弱者を成長させる」とは、その「チャレンジ」の機会を弱者にも与えること、そして奪わないことだ。
「弱者を甘やかす」ことは、弱者を「弱者扱い」して、その「チャレンジ」の機会をむしろ奪ってしまいやすい。
弱者が「チャレンジ」の機会を与えられなければ、成長できないので、ずっと弱者のままだ。これこそ残酷である。

グラミン銀行の融資で商売を始めた途上国の女性が、商売に成功して、貧困から脱出できたという記事を読んだことがある。
その女性は、「私たちはお金を恵んで欲しいのではない。自分の力で稼ぎたいのだ」という意味のことを語っていた。
これが人間だと思う。どんな弱者にもプライドがあり、「お金を恵んでもらう」ことを本心から望んでいるわけではない。できることなら自分の力で稼いで、誰にも引け目を感じることなく、堂々と生きていきたいと思っているはずなのだ。

食べるものがなくて、誰かが死にそうになっていたら、「魚を与える」必要がある。
しかし、「魚を与える」ことをずっと続ければ、その人はそれを前提にしてしまい、永遠に成長できない。
「魚を与える」のではなく、「魚の釣り方を教える」必要がある。これで、その人は自立できるようになる。

「弱者を成長させる」には、弱者に「チャレンジ」してもらう必要がある。弱者に努力を要求するのだ。
これは一見きびしいようだが、これがほんとうの「優しさ」であり、人間に対するリスペクトだと思う。
いっぽう「弱者を甘やかす」ことは、弱者を弱者のまま固定化してしまうので、むしろ残酷である。

一見したところ「弱者の味方」に見える制度や言説が、実は「弱者を甘やかす」ことにしかなっておらず、真に弱者のためにはなっていない、と感じられることがよくある。その理由は、その制度や言説を生み出す人が、「弱者を甘やかす」ことと「弱者を成長させる」ことの区別が単についていないか、あるいはもっとひどい場合、「弱者の味方」のフリをするということが、その人にとって利益になっているからだろう。

「きびしい」こと、「耳に痛い」ことを言う人のほうが、実は親身になってくれている、ということはよくある。その反対に、「甘い」こと、「耳にやさしい」ことを言ってくれるが、実はどうでもいいと思っていたり、自己利益のためにリップサービスしているだけ、ということもよくある。

「良薬は口に苦し」とは、まさにこのことだ。苦いものがすべて良薬とは限らないが、良薬が甘いということはあまりなさそうだ。「チャレンジ」とは、まさに「苦い良薬」のことだろう。少し苦いけれども、成長のためにはそれが必要なのだ。


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