2011.04.25
情報の「工芸」と「工業」
以前、印刷関係の本を読んだとき、こういう話が書いてあった。日本語は文字が多いため、アルファベットだけの国に比べると、活字や印刷にコストがかかる。そのため日本では、活字や印刷の「工芸」が発達せず、「工業」の方向だけが発達した、と。

これは、実に大きな問題だと思う。このことが、日本の方向を「文明」のレベルで決定づけたはずだ。

「工芸」というのは個人レベルの技芸で、「工業」というのは規格化された大量生産だ。どちらがいいというのではなく、どちらも必要で、それぞれの役割がある。

個人レベルの「工芸」は、商売にはならないかもしれないが、これがどのくらい普及・発達しているかで、国民の「リテラシー」が左右される。

自分で活字を組んで印刷することを、「プライベート・プレス(Private Press)」と呼ぶことがある。日本では、活字や印刷がもっぱら「工業」になってしまい、個人の趣味でおこなうことがほとんどなかったので、この「プライベート・プレス」のような概念自体がない。

PCとネットの登場で、情報を個人で作成・公開するコストが劇的に下がった。これにより、文字が多いことから来るコストもだいぶ少なくなり、日本でも「工芸」が興隆しつつある。しかし、この100年か200年くらいのあいだに生じた、「工芸」の遅れは大きいだろう。

日本は「ものづくり」が得意だが、それはあくまでも物質の話である。情報・言葉・概念・シンボル操作では、事情がまったく異なる。

PCやネットが出てくるまでは、文字が多いということが、じつに大きな制約であり、コスト要因だった。これが、個人レベルでの「情報の工芸」をむずかしくした。いっぽう「情報の工業」にはカネがかかるので、もっぱら政府や大企業、マスコミが独占するものになる。

情報を扱うコストが下がれば下がるほど、それは一般人に味方し、民主化につながる。これは古今東西、どの国にもあてはまる普遍的な真理だと思うが、特に日本の場合、このことの意味が大きそうだ。文字が多いことで、情報を扱うコストがとりわけ高かったからだ。

PCとネットは、日本に「情報の工芸」をもたらしつつある。物質的な「ものづくり」では世界をリードする日本だが、「情報の工芸」はまだ遅れている。逆にいえば、これこそが日本の未来だと思う。


関連:
朗文堂 - さぁ、いまからプライヴェート・プレス運動
http://www.robundo.com/adana-press-club/column/column012.html

関連エントリ:
山崎養世によるバランスのとれた日本評
http://mojix.org/2008/03/27/yamazaki_yasuyo
パブリック空間が開放され、マスメディアの危機が訪れている
http://mojix.org/2005/10/31/233644