2012.07.17
意見がバラバラなのは、自由の証(あか)し
原発やTPP、消費税、生活保護など、国論を二分するようなテーマが増えてきている。

こういうテーマをめぐってあちこちに対立が生まれるのは、疲れる面もある。みんな意見が一致したほうがラクなことはたしかだ。

しかし、意見はバラバラであたりまえなのだ。「みんな意見が一致」しているほうが、むしろ危険である。

「みんな意見が一致」しているとすれば、反対できないような圧力が支配しているとか、「みんな意見が一致」しているようにウソをついているなど、むしろ何らかの問題があることの兆候だろう。

意見はバラバラなのだが、話し合いの結果、なんらかの合意点や結論を出す、というのはいい。多くの場合、そうしないと物事が進まないだろう。しかしそれは、「みんな意見が一致」しているのとは違う。

日本の場合、「みんな意見が一致」しているというフィクションが求められることが少なくない。意見がバラバラであるということが、あらかじめ一種の「タブー」になっていて、多様性が封殺されてしまうのだ。

この日本的なメカニズムの背後にあるのは、「異なるものは排除する」という考えかただろう。いわゆる「空気」がまさにこれだ。

その意味で、さまざまなテーマをめぐってあちこちに「対立」が顕在化してきたのは、むしろ望ましい兆候ではないだろうか。「みんな意見が一致」しているというフィクションが成立しなくなり、意見がバラバラであるという自然な姿があらわれてきたのだ。

日本は、少しずつ前進していると思う。意見がバラバラなのは、自由の証(あか)しだ。


関連エントリ:
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