フールズメイトの思い出
音楽雑誌『フールズメイト』が(実質)休刊とのこと。この雑誌にはとてもお世話になったので、個人的な思い出を書いてみたい。
私がフールズメイトを知ったのは、たしか高1の頃なので、たぶん1984年だ。本屋の音楽雑誌コーナーにあったのを読んで、おもしろいと思って買ったのだと思う。当時の私は、「ベストヒットUSA」や「MTV」みたいな洋楽ヒットチャートものから、よりマニアックなニューウェイヴに足を踏み入れつつある頃だった。
フールズメイトはもともとプログレ雑誌として始まったようだが、私が読みはじめた80年代中頃にはニューウェイヴ雑誌になっていた。キュアー、エコー&ザ・バニーメン、コクトー・ツインズ、ニュー・オーダー、ザ・スミスといった人気のあるバンドから、ジム・フィータスやノイバウテンみたいなちょっと前衛的なやつまで、写真つきでいろいろ載っていた。私はそれを熱心に読みながら、アーティストの名前を覚えていった。それを貸レコード屋で探したり、FMラジオでエアチェック(録音)したりしながら、ニューウェイヴを学んでいったのだ。私にとってフールズメイトは、まさに「ニューウェイヴの教科書」だった。
当時のフールズメイトは海外のニューウェイヴをとりあげる一方で、ラフィン・ノーズやウィラード、有頂天など、当時盛り上がりつつあった日本のインディーズもとりあげていた。フールズメイトの前編集長でもあり、難解なエッセイを書いたりしていた北村昌士氏のバンドYBO2や、ソドム、ハナタラシといった、ややハードなものもよく載っていた。この80年代中頃の日本のカルチャーというのは、まだ「ニューアカ」の雰囲気が色濃く、インテリ・難解・暗いというのが「カッコいい」という感じがあった。このあたりの方向性は、主に北村氏のディレクションによるものだったかもしれない。北村氏はトランス・レコードというレーベルも主宰していて、ケラ氏の主宰するナゴム・レコードなどと並び、人気のインディーズレーベルだった。
私はフールズメイトに影響されて、ジム・フィータスやソフト・セル(マーク・アーモンド)、キャバレー・ヴォルテール、ザ・ポップ・グループ、テスト・デプトみたいな、わりと前衛的なやつもいろいろ聴いたのだが、だんだんネオアコ、ギターポップ的な音を好むようになり、その方向に興味を集中させていった。当時のフールズメイトでは、羽積(うつみ)秀明さん(編集長)、瀧見憲司さん、伊藤英嗣さん、白石隆史さんなどが、この方面の音についてわりと書いていたと思う。
その後、私は浪人するために、地元の北海道から東京に出てきた。浪人時は音楽を聴きすぎるとまずいと思い、カセットテープを10本くらい厳選して、それだけ東京に持っていくことにした。そこで選んだのは、Aztec Camera『High Land, Hard Rain』、Prefab Sprout『Swoon』、The Woodentops『Giant』、Felt『Forever Breathes the Lonely Word』、XTC『The Big Express』『Skylarking』、Siouxsie and the Banshees『Tinderbox』、The Cureのベスト、Kate Bushのベスト、といったものだった。このセレクトが、当時の私の趣味をあらわしている。
大学に入って、私はあまり勉強をせずに、音楽を聴き狂った。バイト代の多くを費やして、主にネオアコ系のCDやアナログ盤を買ったり(CDは当時渋谷にあったFRISCOで、アナログ盤はZESTでよく買っていた)、御茶ノ水のジャニスでLPを山ほど借りたりした。この頃、フールズメイトの羽積編集長がどこかのデパートで講演会をするというので、聴きにいった。たぶんニューウェイヴの話だったと思う。ドゥルッティ・コラムのカッコいいミュージック・ヴィデオを流していたのを覚えている。その講演会に感激して、羽積さんに手紙を書いたところ、編集部に遊びに来なさいとのこと。それで初台のフールズメイト編集部に遊びに行き、いろいろ話したところ、原稿を書かせてもらえることになった。
それがたしか1989年で、フールズメイトの94号か、95号か、そのあたりだと思う。それから、小さいサイズの最後である100号まで、私は巻末のシングル紹介ページやレコード評、たまに特集などを書かせてもらった。巻末のシングル紹介ページは、それまで羽積さんがやっていたのだが、私がクリエイションやサラなどのマイナー盤を買いまくっているのを知って、羽積さんがコーナーごと私に譲ってくれた。羽積さんもネオアコ系をそこそこ紹介していたが、私の担当になって、その傾向がいっそう加速した。当時はサラの最初期で、シー・アーチンズ、フィールド・マイス、セイント・クリストファーなど、出るシングル盤がすべて名盤みたいな感じだった。この手のマイナー盤は大体、ZESTで買っていた。
特集記事では、当時の私が夢中になっていたクリエイションの特集が思い出深い。プライマル・スクリーム、ウェザー・プロフェッツ、マイ・ブラディ・バレンタイン、ハウス・オブ・ラブ、ビフ・バング・パウ!など、当時のクリエイションの主要バンドと、レーベルの概略を紹介する特集だった。この頃の私はコンピュータはもちろんワープロも持っておらず、原稿用紙に手書きだった。当時の私は、クリエイションのことはぜんぶアタマに入っているような感じだったので、ほとんど何も見ずに、原稿用紙20枚くらい書いたのを覚えている。
ちなみにその頃、マイ・ブラディ・バレンタインは『Isn't Anything』が出たところで、まだほとんど注目されていなかった。私はフールズメイト誌上でこのバンドを強くプッシュしていたのだが、当時の日本の音楽雑誌では、マイ・ブラディ・バレンタインを評価している人はほとんど見かけなかった。年間ベストアルバムなどにもぜんぜん入っていなくて、ザ・ザとかジーザス・ジョーンズとかのほうが高く評価されていたのだ。当時の私はひたすら稚拙な文章ばかり書いていたが、私が書かなければ誰も書かないようなものを紹介したい、という熱意にあふれていた。
1990年の101号より、フールズメイトは版型が大きくなり、内容はビジュアル系を中心とした、日本のインディーズだけになった。いっぽう、洋楽パートは『MIX』という別雑誌になった。編集長の羽積さんや、古株の石井孝浩さんらはフールズメイトに残り、小泉雅史さんや若野ラヴィンさん、北村昌士さんらの編集者と、洋楽系のライターは『MIX』に移った。
『MIX』はかなりハウスやクラブ・ミュージックに重心を置いた内容で、ロックをバカにするような挑発的なところもあった(笑)。しかし、インディー・ダンスやギターポップ系の記事もけっこうあり、私はこの方面でひきつづき書かせてもらった。『MIX』には伊藤ガビンさんや椹木野衣さんなども参加し、音楽に留まらない幅広い内容で、私は読者としても大いに刺激を受けた。その後、『MIX』は数号で終了したが、小泉雅史さんが中心になって立ち上げたアウトバーン社から『remix』が出て、これが内容的にも人脈的にも、『MIX』を継承するものになった。『remix』はその後かなり長く続いて、たしか1~2年くらい前に、休刊になったという話を聞いた。
101号から大きい版型になったフールズメイトは、私はほとんどかかわっていないのだが、フリッパーズ・ギターのインタビューを2回やらせてもらったのが思い出深い。1回目はたぶん大きい版型の最初の号で、彼らの新作ミュージック・ヴィデオについての内容だったと思う。当時のフリッパーズは1作目のあと、小山田さんと小沢さんの2人組になったところだった。小山田さんが交通事故にあい、退院した直後で、松葉杖をついていたと思う。2回目のインタビューは、その何号かあとで、2作目『カメラ・トーク』が完成し、その内容について語るものだった。『カメラ・トーク』は、1作目の英語詞から日本語詞になり、音楽的にも大きく幅をひろげて、すばらしい内容だった。ネオアコ路線の1作目も十分にいいが、2作目の大きな変貌と成長ぶりには、私も大興奮した。フリッパーズの2人も、傑作ができたばかりの興奮がさめやらぬ感じで、その内容や参加ミュージシャンのエピソードなど、たくさん語ってくれた。私の音楽ライター経験のなかでも、いちばん貴重な機会だったかもしれない。
私はその後、映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』に参加したり、他にも『ユリイカ』や『relax』など、音楽以外の雑誌にも書くようになっていった。しかし、それはすべてフールズメイトの経験が土台になっていて、フールズメイトこそ、私のライターとしての「母校」だった。そのフールズメイトに書くよう、私に声をかけてくれた羽積秀明さんこそ、ライターとしての私を生んでくれた恩人である。
Togetterの「雑誌フールズメイト休止の反応」を読むと、初期のプログレ期の読者から、私と同じ頃のニューウェイヴ期の読者、そしてビジュアル系以降の読者まで、フールズメイトにはじつに幅広い読者がいたことがわかる。いまはネットがあるけれども、かつては雑誌こそが、速報性・専門性・コミュニティ性を兼ね備えた、いわば「文化の現場」だった。
フールズメイトは創刊から38年で、あわせて374号を出したとのこと。ひとつの雑誌をこれだけ長く続けるだけでも簡単なことではないのに、フールズメイトは創刊時からいまに至るまで、内容を変えながらも、少なからぬ影響力を持ちつづけた。まさに偉業だと思う。
関連:
FOOL'S MATE OFFICIAL WEB
http://www.fools-mate.co.jp/pc/
Togetter - 雑誌フールズメイト休止の反応
http://togetter.com/li/399646
関連エントリ:
いまの私はウェブに生きているが、私という人間の基層には雑誌がある
http://mojix.org/2011/03/27/web-zasshi
初期コクトー・ツインズをマイ・ブラディ・バレンタインの新作として聴いてみよう
http://mojix.org/2009/06/09/cocteau_twins
『インディーズの襲来』(1985年)
http://mojix.org/2008/08/08/indies_no_shuurai
渋谷ZESTが閉店
http://mojix.org/2005/07/04/235138
私がフールズメイトを知ったのは、たしか高1の頃なので、たぶん1984年だ。本屋の音楽雑誌コーナーにあったのを読んで、おもしろいと思って買ったのだと思う。当時の私は、「ベストヒットUSA」や「MTV」みたいな洋楽ヒットチャートものから、よりマニアックなニューウェイヴに足を踏み入れつつある頃だった。
フールズメイトはもともとプログレ雑誌として始まったようだが、私が読みはじめた80年代中頃にはニューウェイヴ雑誌になっていた。キュアー、エコー&ザ・バニーメン、コクトー・ツインズ、ニュー・オーダー、ザ・スミスといった人気のあるバンドから、ジム・フィータスやノイバウテンみたいなちょっと前衛的なやつまで、写真つきでいろいろ載っていた。私はそれを熱心に読みながら、アーティストの名前を覚えていった。それを貸レコード屋で探したり、FMラジオでエアチェック(録音)したりしながら、ニューウェイヴを学んでいったのだ。私にとってフールズメイトは、まさに「ニューウェイヴの教科書」だった。
当時のフールズメイトは海外のニューウェイヴをとりあげる一方で、ラフィン・ノーズやウィラード、有頂天など、当時盛り上がりつつあった日本のインディーズもとりあげていた。フールズメイトの前編集長でもあり、難解なエッセイを書いたりしていた北村昌士氏のバンドYBO2や、ソドム、ハナタラシといった、ややハードなものもよく載っていた。この80年代中頃の日本のカルチャーというのは、まだ「ニューアカ」の雰囲気が色濃く、インテリ・難解・暗いというのが「カッコいい」という感じがあった。このあたりの方向性は、主に北村氏のディレクションによるものだったかもしれない。北村氏はトランス・レコードというレーベルも主宰していて、ケラ氏の主宰するナゴム・レコードなどと並び、人気のインディーズレーベルだった。
私はフールズメイトに影響されて、ジム・フィータスやソフト・セル(マーク・アーモンド)、キャバレー・ヴォルテール、ザ・ポップ・グループ、テスト・デプトみたいな、わりと前衛的なやつもいろいろ聴いたのだが、だんだんネオアコ、ギターポップ的な音を好むようになり、その方向に興味を集中させていった。当時のフールズメイトでは、羽積(うつみ)秀明さん(編集長)、瀧見憲司さん、伊藤英嗣さん、白石隆史さんなどが、この方面の音についてわりと書いていたと思う。
その後、私は浪人するために、地元の北海道から東京に出てきた。浪人時は音楽を聴きすぎるとまずいと思い、カセットテープを10本くらい厳選して、それだけ東京に持っていくことにした。そこで選んだのは、Aztec Camera『High Land, Hard Rain』、Prefab Sprout『Swoon』、The Woodentops『Giant』、Felt『Forever Breathes the Lonely Word』、XTC『The Big Express』『Skylarking』、Siouxsie and the Banshees『Tinderbox』、The Cureのベスト、Kate Bushのベスト、といったものだった。このセレクトが、当時の私の趣味をあらわしている。
大学に入って、私はあまり勉強をせずに、音楽を聴き狂った。バイト代の多くを費やして、主にネオアコ系のCDやアナログ盤を買ったり(CDは当時渋谷にあったFRISCOで、アナログ盤はZESTでよく買っていた)、御茶ノ水のジャニスでLPを山ほど借りたりした。この頃、フールズメイトの羽積編集長がどこかのデパートで講演会をするというので、聴きにいった。たぶんニューウェイヴの話だったと思う。ドゥルッティ・コラムのカッコいいミュージック・ヴィデオを流していたのを覚えている。その講演会に感激して、羽積さんに手紙を書いたところ、編集部に遊びに来なさいとのこと。それで初台のフールズメイト編集部に遊びに行き、いろいろ話したところ、原稿を書かせてもらえることになった。
それがたしか1989年で、フールズメイトの94号か、95号か、そのあたりだと思う。それから、小さいサイズの最後である100号まで、私は巻末のシングル紹介ページやレコード評、たまに特集などを書かせてもらった。巻末のシングル紹介ページは、それまで羽積さんがやっていたのだが、私がクリエイションやサラなどのマイナー盤を買いまくっているのを知って、羽積さんがコーナーごと私に譲ってくれた。羽積さんもネオアコ系をそこそこ紹介していたが、私の担当になって、その傾向がいっそう加速した。当時はサラの最初期で、シー・アーチンズ、フィールド・マイス、セイント・クリストファーなど、出るシングル盤がすべて名盤みたいな感じだった。この手のマイナー盤は大体、ZESTで買っていた。
特集記事では、当時の私が夢中になっていたクリエイションの特集が思い出深い。プライマル・スクリーム、ウェザー・プロフェッツ、マイ・ブラディ・バレンタイン、ハウス・オブ・ラブ、ビフ・バング・パウ!など、当時のクリエイションの主要バンドと、レーベルの概略を紹介する特集だった。この頃の私はコンピュータはもちろんワープロも持っておらず、原稿用紙に手書きだった。当時の私は、クリエイションのことはぜんぶアタマに入っているような感じだったので、ほとんど何も見ずに、原稿用紙20枚くらい書いたのを覚えている。
ちなみにその頃、マイ・ブラディ・バレンタインは『Isn't Anything』が出たところで、まだほとんど注目されていなかった。私はフールズメイト誌上でこのバンドを強くプッシュしていたのだが、当時の日本の音楽雑誌では、マイ・ブラディ・バレンタインを評価している人はほとんど見かけなかった。年間ベストアルバムなどにもぜんぜん入っていなくて、ザ・ザとかジーザス・ジョーンズとかのほうが高く評価されていたのだ。当時の私はひたすら稚拙な文章ばかり書いていたが、私が書かなければ誰も書かないようなものを紹介したい、という熱意にあふれていた。
1990年の101号より、フールズメイトは版型が大きくなり、内容はビジュアル系を中心とした、日本のインディーズだけになった。いっぽう、洋楽パートは『MIX』という別雑誌になった。編集長の羽積さんや、古株の石井孝浩さんらはフールズメイトに残り、小泉雅史さんや若野ラヴィンさん、北村昌士さんらの編集者と、洋楽系のライターは『MIX』に移った。
『MIX』はかなりハウスやクラブ・ミュージックに重心を置いた内容で、ロックをバカにするような挑発的なところもあった(笑)。しかし、インディー・ダンスやギターポップ系の記事もけっこうあり、私はこの方面でひきつづき書かせてもらった。『MIX』には伊藤ガビンさんや椹木野衣さんなども参加し、音楽に留まらない幅広い内容で、私は読者としても大いに刺激を受けた。その後、『MIX』は数号で終了したが、小泉雅史さんが中心になって立ち上げたアウトバーン社から『remix』が出て、これが内容的にも人脈的にも、『MIX』を継承するものになった。『remix』はその後かなり長く続いて、たしか1~2年くらい前に、休刊になったという話を聞いた。
101号から大きい版型になったフールズメイトは、私はほとんどかかわっていないのだが、フリッパーズ・ギターのインタビューを2回やらせてもらったのが思い出深い。1回目はたぶん大きい版型の最初の号で、彼らの新作ミュージック・ヴィデオについての内容だったと思う。当時のフリッパーズは1作目のあと、小山田さんと小沢さんの2人組になったところだった。小山田さんが交通事故にあい、退院した直後で、松葉杖をついていたと思う。2回目のインタビューは、その何号かあとで、2作目『カメラ・トーク』が完成し、その内容について語るものだった。『カメラ・トーク』は、1作目の英語詞から日本語詞になり、音楽的にも大きく幅をひろげて、すばらしい内容だった。ネオアコ路線の1作目も十分にいいが、2作目の大きな変貌と成長ぶりには、私も大興奮した。フリッパーズの2人も、傑作ができたばかりの興奮がさめやらぬ感じで、その内容や参加ミュージシャンのエピソードなど、たくさん語ってくれた。私の音楽ライター経験のなかでも、いちばん貴重な機会だったかもしれない。
私はその後、映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』に参加したり、他にも『ユリイカ』や『relax』など、音楽以外の雑誌にも書くようになっていった。しかし、それはすべてフールズメイトの経験が土台になっていて、フールズメイトこそ、私のライターとしての「母校」だった。そのフールズメイトに書くよう、私に声をかけてくれた羽積秀明さんこそ、ライターとしての私を生んでくれた恩人である。
Togetterの「雑誌フールズメイト休止の反応」を読むと、初期のプログレ期の読者から、私と同じ頃のニューウェイヴ期の読者、そしてビジュアル系以降の読者まで、フールズメイトにはじつに幅広い読者がいたことがわかる。いまはネットがあるけれども、かつては雑誌こそが、速報性・専門性・コミュニティ性を兼ね備えた、いわば「文化の現場」だった。
フールズメイトは創刊から38年で、あわせて374号を出したとのこと。ひとつの雑誌をこれだけ長く続けるだけでも簡単なことではないのに、フールズメイトは創刊時からいまに至るまで、内容を変えながらも、少なからぬ影響力を持ちつづけた。まさに偉業だと思う。
関連:
FOOL'S MATE OFFICIAL WEB
http://www.fools-mate.co.jp/pc/
Togetter - 雑誌フールズメイト休止の反応
http://togetter.com/li/399646
関連エントリ:
いまの私はウェブに生きているが、私という人間の基層には雑誌がある
http://mojix.org/2011/03/27/web-zasshi
初期コクトー・ツインズをマイ・ブラディ・バレンタインの新作として聴いてみよう
http://mojix.org/2009/06/09/cocteau_twins
『インディーズの襲来』(1985年)
http://mojix.org/2008/08/08/indies_no_shuurai
渋谷ZESTが閉店
http://mojix.org/2005/07/04/235138