ひらがな、カタカナ、漢字を使い分けられるのが日本語の強み
hituziのブログじゃがー - わかちがきは、発明されたものだ。
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080704/1215165146
<言語音は、連続しているもので、アイとアムとアとステューデントの間に、音のきれめが くっきりあるわけではありません。けれども、文字で表記するときには、ことばの きれめにスペースを いれています。これを日本語では「わかちがき(分かち書き)」と いいます>。
<世界の言語のなかで、この わかちがきを しない言語は日本語と漢語(いわゆる中国語)ぐらいだと いわれています。もちろん、ほかにも いくつか あるはずですが、わかちがきを しない言語としては、日本語と漢語が代表格です>。
<英語は、スペースで くぎりながら表記するのが あたりまえだと おもっていませんか? もちろん、いまでは「あたりまえ」なのですが、これが発明され、導入されたものだということは、あまり しられていないように感じます>。
これは面白い。「分かち書き」は、西洋でも「発明」されたものだったとは。『読むことの歴史-ヨーロッパ読書史』(大修館書店)という本から、以下の部分が引用されている。
<アイルランドの写字生たちは、ラテン語のテクストを筆写するにあたって、元にした写本で行われている「連続記法」を棄てた。彼らが採用したのは、文法学者の品詞分析の方法から借用した形態論的な分割であって、つまり彼らは「分かち書き」を始めたのである>。
このエントリを読んでもわかるように、このブログ主のhituziさん(あべ・やすしさん)は、できるだけ漢字でなくひらがなを使って書く、という「ひらがな主義」のようだ。ひらがなを多用すれば、「分かち書き」したほうが語の切れ目がわかりやすいので、ひらがな主義と「分かち書き」はほぼ一体のものになる。
私はこうした「国字問題」については、あべさんのような専門家ではないけれども、素人ながら興味を持ってきた。これまでにこのテーマで書いたエントリには、以下のようなものがある。
漢字の可能性
http://mojix.org/2005/01/04/231854
カナモジカイと山下芳太郎
http://mojix.org/2005/07/22/063749
革命か、トンデモ本か - 中根康雄 『絶妙な速メモ(速記)の技術』
http://mojix.org/2005/09/29/122325
漢字の使用をもっと減らすべき(あるいはなくすべき)という立場には、大きく次の3つくらいがあるようだ。
1) 漢字制限論
使う漢字を減らしたり、かんたんなものに制限すべき、という立場。福沢諭吉は、1873年(明治6年)の『文字之教』で、<ムツカシキ漢字ヲバ成ル丈用ヒザルヤウ心掛ルコトナリ>と述べているようだ(「カナモジ論」)。
2) ひらがな論・カタカナ論
基本的にひらがな、あるいはカタカナを使うべき、という立場。単語のあいだに空白をいれる「分かち書き」によって、単語の切れ目をあらわす。上記のhituziさんは「ひらがな論」、カナモジカイなどは「カタカナ論」になる。
3) ローマ字論
基本的にローマ字を使うべき、という立場。ウィキペディアの「ローマ字論」ページが詳しい。梅棹忠夫がローマ字論者として有名。
この3つの立場はいずれも、「日本語は漢字が多すぎ、むずかしすぎるため、日本語の読み書きや習得、普及などに困難を生じている」という問題意識では共通している。私もその問題意識への共感から、こういった国字運動の考え方や歴史に興味をもってきた。
しかし私自身は、その問題意識と同時に、漢字の良さも確信している。漢字は表意文字であり、もっといえば「アイコン」に近いものだ。これはアルファベットやひらがな、カタカナ、ハングルのような表音文字に比べて、書くのは面倒であり、習得もむずかしいが、読み取りの早さにおいて大きな優位性を持っている(「漢字の可能性」)。
いまのところ、私がたどり着いた立場は、1)の漢字制限論に共感しつつも、基本的なスタンスとしては
「ひらがな、カタカナ、漢字を使い分けられるのが日本語の強み」
という、わりとあたり前のものだ。
しかし、ひらがな・カタカナ・漢字を使い分けられるという、この日本語にとって「あたり前のこと」には、以下のような利点が含まれている。
1) 子供などに対して、あるいは電光掲示板のように表示能力が限られた環境において、漢字を減らしたりなくしたりできる。「レベルが可変」である。
2) 新語や輸入語、専門用語などをカタカナで作りやすい。
3) ひらがな、カタカナ、漢字の使い分けによって「分かち書き」のかわりになり、単語の切れ目がわかりやすい。
この1)、2)のような柔軟性も驚くべきものがあり、私が好きな日本語の特性だが、3)こそが日本語に「表現能力」と「効率性」の両方をもたらしている、「日本語のパワーの源泉」だと思う。
上記のhituziさんのエントリによると、「分かち書き」をしないのは日本語と中国語だけだそうだが、中国語は漢字しかないので、情報の密度は最高だが、語の切れ目が視覚的にはわかりにくい。日本語はひらがな・カタカナ・漢字をミックスしているので、その文字種が視覚的に切り替わるところが語の切れ目になり、これで大部分の語の切れ目をカバーしている。
日本語は、漢字という情報密度が高くて視覚的な文字のパワーを利用しつつ、「単語」という単位のわかりやすさも保持して、「単語に分ける」という思考の手間を省いている。表意文字と表音文字のバランスをとり、東洋と西洋の「いいとこどり」をしたような、欲張りで柔軟な言語だと思う。
関連:
ウィキペディア - 国語国字問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD..
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080704/1215165146
<言語音は、連続しているもので、アイとアムとアとステューデントの間に、音のきれめが くっきりあるわけではありません。けれども、文字で表記するときには、ことばの きれめにスペースを いれています。これを日本語では「わかちがき(分かち書き)」と いいます>。
<世界の言語のなかで、この わかちがきを しない言語は日本語と漢語(いわゆる中国語)ぐらいだと いわれています。もちろん、ほかにも いくつか あるはずですが、わかちがきを しない言語としては、日本語と漢語が代表格です>。
<英語は、スペースで くぎりながら表記するのが あたりまえだと おもっていませんか? もちろん、いまでは「あたりまえ」なのですが、これが発明され、導入されたものだということは、あまり しられていないように感じます>。
これは面白い。「分かち書き」は、西洋でも「発明」されたものだったとは。『読むことの歴史-ヨーロッパ読書史』(大修館書店)という本から、以下の部分が引用されている。
<アイルランドの写字生たちは、ラテン語のテクストを筆写するにあたって、元にした写本で行われている「連続記法」を棄てた。彼らが採用したのは、文法学者の品詞分析の方法から借用した形態論的な分割であって、つまり彼らは「分かち書き」を始めたのである>。
このエントリを読んでもわかるように、このブログ主のhituziさん(あべ・やすしさん)は、できるだけ漢字でなくひらがなを使って書く、という「ひらがな主義」のようだ。ひらがなを多用すれば、「分かち書き」したほうが語の切れ目がわかりやすいので、ひらがな主義と「分かち書き」はほぼ一体のものになる。
私はこうした「国字問題」については、あべさんのような専門家ではないけれども、素人ながら興味を持ってきた。これまでにこのテーマで書いたエントリには、以下のようなものがある。
漢字の可能性
http://mojix.org/2005/01/04/231854
カナモジカイと山下芳太郎
http://mojix.org/2005/07/22/063749
革命か、トンデモ本か - 中根康雄 『絶妙な速メモ(速記)の技術』
http://mojix.org/2005/09/29/122325
漢字の使用をもっと減らすべき(あるいはなくすべき)という立場には、大きく次の3つくらいがあるようだ。
1) 漢字制限論
使う漢字を減らしたり、かんたんなものに制限すべき、という立場。福沢諭吉は、1873年(明治6年)の『文字之教』で、<ムツカシキ漢字ヲバ成ル丈用ヒザルヤウ心掛ルコトナリ>と述べているようだ(「カナモジ論」)。
2) ひらがな論・カタカナ論
基本的にひらがな、あるいはカタカナを使うべき、という立場。単語のあいだに空白をいれる「分かち書き」によって、単語の切れ目をあらわす。上記のhituziさんは「ひらがな論」、カナモジカイなどは「カタカナ論」になる。
3) ローマ字論
基本的にローマ字を使うべき、という立場。ウィキペディアの「ローマ字論」ページが詳しい。梅棹忠夫がローマ字論者として有名。
この3つの立場はいずれも、「日本語は漢字が多すぎ、むずかしすぎるため、日本語の読み書きや習得、普及などに困難を生じている」という問題意識では共通している。私もその問題意識への共感から、こういった国字運動の考え方や歴史に興味をもってきた。
しかし私自身は、その問題意識と同時に、漢字の良さも確信している。漢字は表意文字であり、もっといえば「アイコン」に近いものだ。これはアルファベットやひらがな、カタカナ、ハングルのような表音文字に比べて、書くのは面倒であり、習得もむずかしいが、読み取りの早さにおいて大きな優位性を持っている(「漢字の可能性」)。
いまのところ、私がたどり着いた立場は、1)の漢字制限論に共感しつつも、基本的なスタンスとしては
「ひらがな、カタカナ、漢字を使い分けられるのが日本語の強み」
という、わりとあたり前のものだ。
しかし、ひらがな・カタカナ・漢字を使い分けられるという、この日本語にとって「あたり前のこと」には、以下のような利点が含まれている。
1) 子供などに対して、あるいは電光掲示板のように表示能力が限られた環境において、漢字を減らしたりなくしたりできる。「レベルが可変」である。
2) 新語や輸入語、専門用語などをカタカナで作りやすい。
3) ひらがな、カタカナ、漢字の使い分けによって「分かち書き」のかわりになり、単語の切れ目がわかりやすい。
この1)、2)のような柔軟性も驚くべきものがあり、私が好きな日本語の特性だが、3)こそが日本語に「表現能力」と「効率性」の両方をもたらしている、「日本語のパワーの源泉」だと思う。
上記のhituziさんのエントリによると、「分かち書き」をしないのは日本語と中国語だけだそうだが、中国語は漢字しかないので、情報の密度は最高だが、語の切れ目が視覚的にはわかりにくい。日本語はひらがな・カタカナ・漢字をミックスしているので、その文字種が視覚的に切り替わるところが語の切れ目になり、これで大部分の語の切れ目をカバーしている。
日本語は、漢字という情報密度が高くて視覚的な文字のパワーを利用しつつ、「単語」という単位のわかりやすさも保持して、「単語に分ける」という思考の手間を省いている。表意文字と表音文字のバランスをとり、東洋と西洋の「いいとこどり」をしたような、欲張りで柔軟な言語だと思う。
関連:
ウィキペディア - 国語国字問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD..