2009.02.04
成長論者と分配論者、その対立点と合意点
こら!たまには研究しろ!! - まずは三択だって言うことに気づかねばならない
http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20090201#p1

<すると格差と雇用の問題への対応には3つの選択肢しかないことがわかる.

(1)だれからも奪わないしだれも救わない
(2)だれかから奪ってだれかを救う

そして,

(3)経済成長 

この3つ>。

雇用は景気と直結するので、雇用の問題に限れば、(1)か(2)かという「分配」の話よりも、(3)の「成長」のほうが重要なのは言うまでもない、と私も思う。それでもここで飯田氏があえて「成長」を強調せざるをえなかったのは、それだけ分配ばかりに注目が集まっていて、成長の話をする人が少ないからだろう。

しかし同時に、ここで「分配」と「成長」は独立ではない。雇用に限らず、「分配」と「成長」には関係があり、どのように「分配」するかで、「成長」が違ってくる。

だから、「成長」を重視する成長論者は、「成長戦略」という観点から「最適な分配」、つまり、どのように「分配」すればもっとも「成長」できるのか、を考える。その意味では、これはビジネス(経営)や投資の考え方だ。

いっぽう、「分配」を重視する分配論者(ここでは「平等的な分配」を意味するものとする)は、格差や弱者をできるだけ生み出さない、といった人道的な観点から入る。格差や弱者を減らすために、弱者を保護する規制も増やすべきだ、と考える。

しかし成長論者から見ると、この分配論者の戦略は、ベストな成長戦略ではないばかりか、「反・成長」戦略になってしまっており、弱者も含めて全員が損をすることになる。だから、分配論者に対して「それは間違っている」と指摘せざるをえない。

しかし分配論者から見れば、格差や弱者を放置するような考え方や社会は許せないのであり、解雇規制のような弱者保護の規制を良しとするだけでなく、人によっては競争的な自由経済や資本主義そのものに疑問を持つ。

上の部分に続けて、飯田氏はこう書いている。

<僕が常々残念だと思っているのは、低所得者層の生活保障の必要性を感じている論者の多くが(3)の選択肢に冷淡なところです。それどころか経済成長が現在の低所得者層の苦しい生活の原因だなんて思っている人までいる。経済成長と相対的な格差の関係については議論が残りますが、絶対的な貧困への唯一にして最善の処方箋は経済成長なのです。
 にもかかわらず、貧困・格差論の人は(3)を推さない。そして(2)についても主張の核とはならないようだ。すると……貧困・格差論者はいろいろな現状分析はするけれど改善の提案は持たない議論に向かわざるを得ないんじゃないだろうか。これは旧来の左翼の「いろいろ言うけど何もしなかった(できなかった)」という歴史を再現させるだけな気がしてなりません>。

けっきょく、成長論者と分配論者は、上記のように対立的なスタンスにならざるをえない部分があるので、分配論者が「成長」に冷淡なのは、むしろ当然だという気がする。

なお、私は完全に成長論者だが、分配論者の人道的なスタンス、「善意」は大切であって、尊重したいと考えている。問題は、その人道主義をどう実現するかという手段・方法、「制度」や「メカニズム」だと思う。

分配論者の多くは、すべてを政府に任せて、税金をたくさん払い、多くの規制を作って市場を強制誘導すれば「望ましい社会」ができあがる、と考えているように思える。私はそれとまったく反対であって、「望ましい社会」というものは、民間による自由経済の市場が基本で、政府は限りなく小さく、人道的な行為も自主性・自発性に任せるような、そんな社会なのだ。公共的なサービスも民間企業や慈善団体が提供し、それぞれの人間が、自分に必要なサービスだけを民間企業から買い、寄付したい慈善団体に寄付する、といった社会だ。

いまの日本は、「分配」の名のもとに政府がたくさんの税金を強制的に集めておきながら、それがムダ使いされたり、一部の人間に流れたりして、国民にはあまり還元されていない、という状態だろう。いつまで経っても解決しない年金問題など、その最たるものだ。

この「政府による税金のムダ使い」という点では、成長論者と分配論者はいずれも被害者であり、利害が一致している。会社経営が苦しいのも、貧困が深刻化しているのも、政府のムダ使いが足を引っぱっているところが小さくない。

ミルトン・フリードマンの「負の所得税」をはじめ、「小さな政府」路線の成長論者であっても、貧困を解消するセーフティネットにはたいてい賛成するはずだ。「税制・年金・生活保護・医療保険などの不公平・非効率をなくし、生活保障をまともなセーフティネットに一本化する」といった方向の政策であれば、成長論者と分配論者が合意し、「共闘」できるのではないかと思う。

いっぽう「規制」については、今回の雇用問題でも争点のひとつである解雇規制を見てもわかるように、名目上は弱者保護でありながら、まったく弱者保護になっておらず、むしろ格差を固定化し、弱者が這い上がれないような不公平な仕組みを強化してしまっている。これについては、分配論者の「人道主義」は完全に裏目に出ているのだ。そのうえ産業レベルでも弊害があり、日本の競争力を落としているのだから、まったく愚かな規制、「間違った制度設計」というほかはない。

弱者保護の規制が全体に不利益を及ぼすという意味では、解雇規制というものは、一部に被害者が出たというだけで、こんにゃくゼリーやケータイ、ネットなどを規制してしまうような考え方(「規制脳」)と根が同じだ。みずから責任を負ってリスクを取ることでメリットを得る、という選択肢を消してしまうのだ。この種の介入、「強制的なお節介」は、よく「パターナリズム(温情主義)」と呼ばれる。

パターナリズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91..

<パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にあるものが、弱い立場にあるものに対して、後者の利益になるとして、その後者の意志に反してでも、その行動に介入・干渉することをいう。日本語では「父権主義」「温情主義」などと訳される。語源はラテン語のpater(パテール、父)で、pattern(パターン)ではない。
 社会生活のさまざまな局面において、こうした事例は観察されるが、とくに国家と個人の関係に即していうならば、パターナリズムとは、個人の利益を保護するためであるとして、国家が個人の生活に干渉し、あるいは、その自由・権利に制限を加えることを正当化する原理である>。

解雇規制や借地借家法などをはじめとして、日本にはこのパターナリズムが多い。弱者保護と言えば聞こえはいいが、逆にいえば個人の自主性が尊重されておらず、自由に選ぶ余地が消されているのだ。そして多くの場合、それが引き起こす全体的な効率の低下も考えられていない。

このように、規制という問題では、「部分的な人道主義」と「全体の経済効率」が対立しやすい。その意味では、「税金のムダ使い」に比べると、この問題で成長論者と分配論者が合意するのは容易ではなさそうだ。


関連エントリ:
成長論者と分配論者が合意できる「解」とは?
http://mojix.org/2008/12/17/seichou_bunpai