企業は「価値を生み出す装置」
私が解雇規制に反対するのは、労働市場への介入だからだ。それは市場を守る規制ではなく、市場を損なう規制になってしまっている。
市場は自由な取引により成り立つ。自由な取引とは、当事者どうしが自らの意志に基づいておこなう取引だ。
解雇規制は、雇用契約という取引をやめたいという企業側の選択肢を封じてしまうので、どんな取引をするかという意思決定自体に影響を与える。自由な意思決定のための選択肢が封じられた「制限された市場」は、自由な市場とはいえず、市場メカニズムによる効用・メリットが限定されてしまう。
それでも、解雇規制は正当であるという印象が生み出されてしまうのは、解雇・失業というイメージがやはり強烈だからだろう。失業は良くない、だから解雇をおこなう企業は良くない、みたいな考え方だろうか。
企業は市場のなかで商品・サービスを売って収益を上げるから、企業の業績を左右するのは、その企業から商品・サービスを買う消費者である(ここでは買い手側・顧客が別の企業である場合も「消費者」と見なす)。企業の業績が下がるのは、経営がヘタなのか、不況なのかは置くとしても、ともかくその会社から商品・サービスを買う消費者が減るからだ。
企業を動かすのは経営者という以上に、消費者なのだ。企業の業績が上がったり下がったりするのは、結局のところ、消費者がその企業から買ったり買わなかったりするからだ。これが市場である。
消費者が「買う」「買わない」の選択を自由にできることは当然であって、これは誰にも非難されないし、規制もかかっていない。しかし、その消費行動によって業績が左右する企業においては、「雇う」「雇わない」という経営判断が自由にできず、規制がかかっているのだ。これがおかしい。なぜ両者の合意で成立する自由取引に国が介入できるのか。
雇用問題では、多くの人が「雇われる側」の視点でしか考えていないので、「雇われる側」が有利になるように「雇う側」を規制しても問題ない、という考えがおそらく出やすいのだろう。しかし、市場はつながっている。「雇う側」を規制すれば、企業はその「構造」を前提とした適応行動を取るので、採用を絞ったり、派遣を使ったり、子会社を作って子会社で採用したり、アウトソースしたりする。そして採用する場合も失敗時のコストが高く、「失敗が許されない」ので、採用基準が属性差別的なものになったりする。
そのように「制約された行動」を取る企業から、消費者は商品・サービスを買い、国は税金を取るのだし、多くの人がその企業で働くのだ。結局のところ、「雇う側」を規制すれば、その規制の影響は消費者・国・労働者など、利害関係者すべてに及ぶ。「雇う側」を規制しても問題ない、という局所的な考え方のツケは、社会全体で払うことになる。いまの歪んだ雇用状況が、その結果だ。
解雇規制とは、企業に雇用責任を押しつけることで、国民の生活保障を企業にやってもらおうという「国の政策」だ。
日本はただでさえ法人税が世界一高く、企業の競争力を削いでいるうえに、この「生活保障押し付け」によって、経営に大きな制約を加えている。この規制は「かたちを変えた税金」であって、企業にとって数字の上でコストになるだけでなく、大きな「機会費用」(制約がなければ得られたはずの利益が得られない)にもなっている。
これだけ高い税金とコストを押し付けているうえに、保険や年金まで取っておきながら、日本政府は何をやっているのか。その税金をデタラメにムダ使いしているようにしか見えない。
雇用問題で企業を悪者と見なす考え方は、単に間違っているだけでなく、真の問題は「高い税金」と「強い規制」にあるという「構造」をわかりにくくしてしまう。間違った理解が広まると、税金はさらに高くなり、規制がさらに強くなりかねない。
企業は市場から原材料や労働力を調達し、市場に商品やサービスを売る。市場は自由取引から成るので、そこに強制はありえない。しかし国は、強制的に税金を徴収し、強制的に規制を課す。この強制が正当化されるのは、国民の自由や利益を増す方向に税金を使い、規制する場合だけだろう。しかしいまの日本では、税金が国民の意思に反してムダ使いされ、規制が自由を損ない、国民の利益を失わせているようにしか見えない。
誰もが企業から商品やサービスを買い、大部分の人がそこで働いている。国もかなりの部分が、企業が払う税金によって成立している。だから、企業を敵視するような考え方や、企業を痛めつけるような仕組みは、誰にとってもマイナスになる。企業は「価値を生み出す装置」だと考えて欲しい。みんなでそれを大事にして、育てていけば、ずっと価値を生み出しつづけるのだ。
経営者や起業家は、その「価値を生み出す装置」を動かしたり、作るためのキーパーソンだ。もちろん全員が尊敬できる人間とは限らないし、人間だからもちろん間違いや失敗もあるが、社会として大事にすべき人たちであることは確かだと思う。いまの日本では、企業への高い税金や強い規制も問題だが、もっと根本的に、経営者や起業家への「リスペクト」が足りないと感じる。雇用問題で企業や経営者が悪者になりがちなのを見ても、それを痛感する。
変えるべきなのは制度・仕組みだけでなく、その制度を後押ししている考え方や価値観もそうだろう。しかし、この考え方や価値観というもの自体、すべてが「心の問題」というわけではなく、その一部は「仕組みに対する適応行動」なのであって、いわば「仕組みが生み出した心」なのだ、というのが山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』の教えだ。制度はそのままで、まず「心」だけ変えるというのは難しい。むしろ制度を変えれば、「心」のほうは意外に早く変わっていくのではないか。
市場は自由な取引により成り立つ。自由な取引とは、当事者どうしが自らの意志に基づいておこなう取引だ。
解雇規制は、雇用契約という取引をやめたいという企業側の選択肢を封じてしまうので、どんな取引をするかという意思決定自体に影響を与える。自由な意思決定のための選択肢が封じられた「制限された市場」は、自由な市場とはいえず、市場メカニズムによる効用・メリットが限定されてしまう。
それでも、解雇規制は正当であるという印象が生み出されてしまうのは、解雇・失業というイメージがやはり強烈だからだろう。失業は良くない、だから解雇をおこなう企業は良くない、みたいな考え方だろうか。
企業は市場のなかで商品・サービスを売って収益を上げるから、企業の業績を左右するのは、その企業から商品・サービスを買う消費者である(ここでは買い手側・顧客が別の企業である場合も「消費者」と見なす)。企業の業績が下がるのは、経営がヘタなのか、不況なのかは置くとしても、ともかくその会社から商品・サービスを買う消費者が減るからだ。
企業を動かすのは経営者という以上に、消費者なのだ。企業の業績が上がったり下がったりするのは、結局のところ、消費者がその企業から買ったり買わなかったりするからだ。これが市場である。
消費者が「買う」「買わない」の選択を自由にできることは当然であって、これは誰にも非難されないし、規制もかかっていない。しかし、その消費行動によって業績が左右する企業においては、「雇う」「雇わない」という経営判断が自由にできず、規制がかかっているのだ。これがおかしい。なぜ両者の合意で成立する自由取引に国が介入できるのか。
雇用問題では、多くの人が「雇われる側」の視点でしか考えていないので、「雇われる側」が有利になるように「雇う側」を規制しても問題ない、という考えがおそらく出やすいのだろう。しかし、市場はつながっている。「雇う側」を規制すれば、企業はその「構造」を前提とした適応行動を取るので、採用を絞ったり、派遣を使ったり、子会社を作って子会社で採用したり、アウトソースしたりする。そして採用する場合も失敗時のコストが高く、「失敗が許されない」ので、採用基準が属性差別的なものになったりする。
そのように「制約された行動」を取る企業から、消費者は商品・サービスを買い、国は税金を取るのだし、多くの人がその企業で働くのだ。結局のところ、「雇う側」を規制すれば、その規制の影響は消費者・国・労働者など、利害関係者すべてに及ぶ。「雇う側」を規制しても問題ない、という局所的な考え方のツケは、社会全体で払うことになる。いまの歪んだ雇用状況が、その結果だ。
解雇規制とは、企業に雇用責任を押しつけることで、国民の生活保障を企業にやってもらおうという「国の政策」だ。
日本はただでさえ法人税が世界一高く、企業の競争力を削いでいるうえに、この「生活保障押し付け」によって、経営に大きな制約を加えている。この規制は「かたちを変えた税金」であって、企業にとって数字の上でコストになるだけでなく、大きな「機会費用」(制約がなければ得られたはずの利益が得られない)にもなっている。
これだけ高い税金とコストを押し付けているうえに、保険や年金まで取っておきながら、日本政府は何をやっているのか。その税金をデタラメにムダ使いしているようにしか見えない。
雇用問題で企業を悪者と見なす考え方は、単に間違っているだけでなく、真の問題は「高い税金」と「強い規制」にあるという「構造」をわかりにくくしてしまう。間違った理解が広まると、税金はさらに高くなり、規制がさらに強くなりかねない。
企業は市場から原材料や労働力を調達し、市場に商品やサービスを売る。市場は自由取引から成るので、そこに強制はありえない。しかし国は、強制的に税金を徴収し、強制的に規制を課す。この強制が正当化されるのは、国民の自由や利益を増す方向に税金を使い、規制する場合だけだろう。しかしいまの日本では、税金が国民の意思に反してムダ使いされ、規制が自由を損ない、国民の利益を失わせているようにしか見えない。
誰もが企業から商品やサービスを買い、大部分の人がそこで働いている。国もかなりの部分が、企業が払う税金によって成立している。だから、企業を敵視するような考え方や、企業を痛めつけるような仕組みは、誰にとってもマイナスになる。企業は「価値を生み出す装置」だと考えて欲しい。みんなでそれを大事にして、育てていけば、ずっと価値を生み出しつづけるのだ。
経営者や起業家は、その「価値を生み出す装置」を動かしたり、作るためのキーパーソンだ。もちろん全員が尊敬できる人間とは限らないし、人間だからもちろん間違いや失敗もあるが、社会として大事にすべき人たちであることは確かだと思う。いまの日本では、企業への高い税金や強い規制も問題だが、もっと根本的に、経営者や起業家への「リスペクト」が足りないと感じる。雇用問題で企業や経営者が悪者になりがちなのを見ても、それを痛感する。
変えるべきなのは制度・仕組みだけでなく、その制度を後押ししている考え方や価値観もそうだろう。しかし、この考え方や価値観というもの自体、すべてが「心の問題」というわけではなく、その一部は「仕組みに対する適応行動」なのであって、いわば「仕組みが生み出した心」なのだ、というのが山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』の教えだ。制度はそのままで、まず「心」だけ変えるというのは難しい。むしろ制度を変えれば、「心」のほうは意外に早く変わっていくのではないか。