自分の値段はいくらなのか
Rails で行こう! - 本格化する頭脳流出
http://d.hatena.ne.jp/elm200/20091217/1261055283
<日本がバブル景気に沸き立っていた1990年前後、私は、東京の大学生だった。バブルのころ日本がどれほどの繁栄を極めたか、実際に体験している。いまの個人的なプロジェクトは、そういう時代を忘れることだ。あれは、夢だ、幻だ。日本人だというだけで、月50万円とか稼げる時代はもう終わった。これから何をしても、私はそれほど稼ぐことはできないだろう。私のベトナム人の友人たちは、優秀だが、みな月給2万円・3万円というレベルで仕事をしている。正直、私のほうが生産性が高いにしてもせいぜいその3倍。客観的に自分に値札をつけるとすれば、10万円がいいところだろう。10万円が私の適正価格だ。ものさしを差し替えろ。新興国の人々の視点に立て。そうすれば、また一から、新鮮な気持ちで物事を始めることができるかもしれない。既得権益にしがみつく立場ではなく、それを打ち壊す攻めの立場に立てるかもしれない>。
この「自分に値札をつける」という観点は面白い。自分(の労働)の値段はいくらなのか?
これにはいろいろな考え方があると思うが、私は「時価」、つまり「現時点での自分の市場価格」が唯一のフェアな基準だと思う。要するに、ザックリいえば「いま稼いでいる金額」だ。
いま月収30万円の人は、月あたり30万円で「自分(の労働)という商品を売っている」。月収100万円の人は、月あたり100万円。無職の人は、もちろん0円だ。
もちろん、人間の価値そのものがゼロということはないが、「いま市場で取引されている価格」を基準にするならば、買う人がいない場合は0円と考えるのが妥当だろう。
先日の「竹中平蔵vs菅直人 「現実が変わった」ことを受け入れられない日本」でも書いたが、私は好況でも不況でも、そのときの経済状況を「現実」と捉える見方を採っている。何らかの商品が「売れない」とき、「こんなに売れないのは異常だ。本来はもっと売れてもいい」と考えるのは自由だが、そういうふうに考えても大抵ロクなことはなく、「売れないことが現実なのだ」と捉えたほうがいい。
株などの投資では、しばしば「売られすぎ」という言い方がされる。本当はもっと価値があるのに、市場では過小評価されていると感じる場合だ。しかし、「売られすぎ」だということがほんとうに明白かつ絶対的な真理であれば、その株は必ず上がるはずだ。必ず上がることがわかっていれば、誰だってその株を買うだろう。だとすれば、その株はたちまち値上がりするはずで、その安値でくすぶっている理由はないはずなのだ。
つまり市場における価格というのは、「その時点での市場参加者の総意」だと考えるしかない。市場参加者が全員バカで、全員が過小評価している、あるいは逆に過大評価しているということは当然ありえるが、それは「あとから振り返って初めてわかる」ことであり、その時点ではわからないのだ。
このような基準で「自分に値札をつける」ということを考えれば、「いま市場で取引されている価格」が「自分の値段」だと考えるしかない。
現実には月収30万円だが、実際は100万円くらいもらってもおかしくない、と考えている労働者がいるとする。もしこの労働者の考えが絶対に正しいのならば、そのケチくさい会社をさっさと辞めて、自分の「ほんとうの価値」をわかってくれる会社を探すべきだ。ほんとうに100万円の価値があるならば、すぐに見つかるだろう。しかし、いくら探してもそんな会社が見あたらなかった場合、そのことが意味しているのは、世の中の会社が全部バカだというよりも、この労働者の「ほんとうの価値」が月100万円だという自己評価が甘すぎたということだろう。
自分が安い値段でしか「売れない」という現実を、「会社がバカだからだ」と捉えている限り、成長はない。これは商売人が、自分の商品が「売れない」ことを客のせいにするようなものだ。店の商品が「売れない」のは、客がバカだからだと思っているような店を想像してみてほしい。そんな店では買いたくないし、ロクな店じゃないと思うだろう。
「売れない」ならば、それが現実だと認めて、もっと売れるように魅力や付加価値を上げようというふうに考えるべきだろう。それは店であっても、労働者であっても、国の経済であっても、同じことだと思うのだ。「売れない」という現実を認めようとせず、他人のせいにしている限り成長はないし、そういう人、そういう店、そういう国からは、客が逃げていくだろう。
関連エントリ:
竹中平蔵vs菅直人 「現実が変わった」ことを受け入れられない日本
http://mojix.org/2009/12/17/takenaka_kan
すべての労働者が「自分の労働力を管理する会社」を持つようにしたら、どうなるか
http://mojix.org/2009/01/24/my_labour_company
会社が社員をきちんと評価できていないからこそ、雇用流動性が必要なのだ
http://mojix.org/2008/06/04/fluidity_of_employment_for_you
http://d.hatena.ne.jp/elm200/20091217/1261055283
<日本がバブル景気に沸き立っていた1990年前後、私は、東京の大学生だった。バブルのころ日本がどれほどの繁栄を極めたか、実際に体験している。いまの個人的なプロジェクトは、そういう時代を忘れることだ。あれは、夢だ、幻だ。日本人だというだけで、月50万円とか稼げる時代はもう終わった。これから何をしても、私はそれほど稼ぐことはできないだろう。私のベトナム人の友人たちは、優秀だが、みな月給2万円・3万円というレベルで仕事をしている。正直、私のほうが生産性が高いにしてもせいぜいその3倍。客観的に自分に値札をつけるとすれば、10万円がいいところだろう。10万円が私の適正価格だ。ものさしを差し替えろ。新興国の人々の視点に立て。そうすれば、また一から、新鮮な気持ちで物事を始めることができるかもしれない。既得権益にしがみつく立場ではなく、それを打ち壊す攻めの立場に立てるかもしれない>。
この「自分に値札をつける」という観点は面白い。自分(の労働)の値段はいくらなのか?
これにはいろいろな考え方があると思うが、私は「時価」、つまり「現時点での自分の市場価格」が唯一のフェアな基準だと思う。要するに、ザックリいえば「いま稼いでいる金額」だ。
いま月収30万円の人は、月あたり30万円で「自分(の労働)という商品を売っている」。月収100万円の人は、月あたり100万円。無職の人は、もちろん0円だ。
もちろん、人間の価値そのものがゼロということはないが、「いま市場で取引されている価格」を基準にするならば、買う人がいない場合は0円と考えるのが妥当だろう。
先日の「竹中平蔵vs菅直人 「現実が変わった」ことを受け入れられない日本」でも書いたが、私は好況でも不況でも、そのときの経済状況を「現実」と捉える見方を採っている。何らかの商品が「売れない」とき、「こんなに売れないのは異常だ。本来はもっと売れてもいい」と考えるのは自由だが、そういうふうに考えても大抵ロクなことはなく、「売れないことが現実なのだ」と捉えたほうがいい。
株などの投資では、しばしば「売られすぎ」という言い方がされる。本当はもっと価値があるのに、市場では過小評価されていると感じる場合だ。しかし、「売られすぎ」だということがほんとうに明白かつ絶対的な真理であれば、その株は必ず上がるはずだ。必ず上がることがわかっていれば、誰だってその株を買うだろう。だとすれば、その株はたちまち値上がりするはずで、その安値でくすぶっている理由はないはずなのだ。
つまり市場における価格というのは、「その時点での市場参加者の総意」だと考えるしかない。市場参加者が全員バカで、全員が過小評価している、あるいは逆に過大評価しているということは当然ありえるが、それは「あとから振り返って初めてわかる」ことであり、その時点ではわからないのだ。
このような基準で「自分に値札をつける」ということを考えれば、「いま市場で取引されている価格」が「自分の値段」だと考えるしかない。
現実には月収30万円だが、実際は100万円くらいもらってもおかしくない、と考えている労働者がいるとする。もしこの労働者の考えが絶対に正しいのならば、そのケチくさい会社をさっさと辞めて、自分の「ほんとうの価値」をわかってくれる会社を探すべきだ。ほんとうに100万円の価値があるならば、すぐに見つかるだろう。しかし、いくら探してもそんな会社が見あたらなかった場合、そのことが意味しているのは、世の中の会社が全部バカだというよりも、この労働者の「ほんとうの価値」が月100万円だという自己評価が甘すぎたということだろう。
自分が安い値段でしか「売れない」という現実を、「会社がバカだからだ」と捉えている限り、成長はない。これは商売人が、自分の商品が「売れない」ことを客のせいにするようなものだ。店の商品が「売れない」のは、客がバカだからだと思っているような店を想像してみてほしい。そんな店では買いたくないし、ロクな店じゃないと思うだろう。
「売れない」ならば、それが現実だと認めて、もっと売れるように魅力や付加価値を上げようというふうに考えるべきだろう。それは店であっても、労働者であっても、国の経済であっても、同じことだと思うのだ。「売れない」という現実を認めようとせず、他人のせいにしている限り成長はないし、そういう人、そういう店、そういう国からは、客が逃げていくだろう。
関連エントリ:
竹中平蔵vs菅直人 「現実が変わった」ことを受け入れられない日本
http://mojix.org/2009/12/17/takenaka_kan
すべての労働者が「自分の労働力を管理する会社」を持つようにしたら、どうなるか
http://mojix.org/2009/01/24/my_labour_company
会社が社員をきちんと評価できていないからこそ、雇用流動性が必要なのだ
http://mojix.org/2008/06/04/fluidity_of_employment_for_you