2009.12.29
「動物の権利」とリバタリアニズム
リバタリアンの蔵研也さんが、最近ベジタリアニズム(菜食主義)についてよく書いている。

Veganism は Libertarianism から肯定出来るのか?
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20091227
続 vegetarianism & libertarianism
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20091228

蔵さんがベジタリアニズムに興味を持ったのは、「動物の権利」がきっかけだという。

The China Study
http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20091119

<僕の信奉する異端学説の中では、
リバタリアニズムと並んで、ヴェジタリアニズム=「動物タンパク質悪玉説」があります。
そもそも僕がヴェジタリアニズムに興味を持ったのは、
「動物の権利」という、
どっちかというとバカバカしくてほとんどの人には興味のない方向からです>。

ウィキペディア - 動物の権利
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95..

<動物の権利(アニマル・ライツ、animal rights)とは、動物には人間から搾取されたり残虐な扱いを受けることなく、それぞれの動物の本性に従って生きる権利があるとする考え方である。
 動物の権利運動は、ピーター・シンガーが1975年に出版した「動物の解放」(ANIMAL LIBERATION)をきっかけに、世界中に広まっていった。シンガーはその著書の中で動物は苦痛を感じる能力に応じて、人間と同等の配慮を受けるべき存在であり、種が異なる事を根拠に差別を容認するのは種差別(スピーシズム)にあたるとした。功利主義の立場に立つシンガーは平等な配慮という原則を強調し、権利という言葉は使っていない。1983年、トム・リーガン(Tom Regan)が出版した「THE CASE FOR ANIMAL RIGHTS」の中では動物の権利という概念が前面に打ち出されている。
 動物の権利運動家の多くは、この運動が性差別や人種差別に反対する運動の延長線上にあると考えている。動物の権利を支持する者は、商業畜産や動物実験、狩猟等、動物を搾取し苦しめる行為を全面的に廃止するべきだと訴え、人々にベジタリアニズムの実践を呼びかけている。
 動物の権利運動から見た、従来の動物愛護や動物の福祉の考え方は、動物になるべく苦しみを与えるべきではないと言う点では共通するものの、人間による動物に対する搾取そのものを否定していない点で、動物の権利の考え方とは根本的に異なると見なしている>。

リバタリアンである蔵さんが、この「動物の権利」を経由してベジタリアニズムに興味を持ったというのは、個人的にはうれしい驚きで、とても共感できる。「動物の権利」という考え方の核心は、いやがることを「強制」されない権利が動物にもある、ということなので、「自由」を最も重視するリバタリアニズムに通じるものがある。

しかし同時に、「動物の権利」論者のポジションというのは、一般的には環境保護団体にも似て、いわゆる「左翼」寄りである。ベジタリアニズムも同様で、その支持者のイメージは、どちらかといえば資本主義や金儲けを嫌い、大企業を憎むような考え方の人が多そうだ。

つまり乱暴にいえば、リバタリアニズムは資本主義や金儲けに肯定的な「肉食系」で、「動物の権利」やベジタリアニズムは「草食系」(まさに文字通り)、というような捉え方がおそらく一般的だと思う。

リバタリアニズム自体、蔵さんが「異端学説」と書くように、まだまだ知られていない考え方である。そのリバタリアニズムと、「動物の権利」やベジタリアニズムという、一般的なイメージでは対立しているようにすら見える考え方が、蔵さんの中で共存しているわけだ。

私の場合、リバタリアニズムという考え方を知り、意識的に支持しはじめたのはこの2年くらいだが、「動物の権利」やベジタリアニズムの考え方は、10年以上前から共感してきた(末尾の「参考」参照)。私は菜食主義者にはほど遠く、肉も普通に食べるのだが、肉はそれほど好きではなくて、玄米や雑穀米、無農薬野菜、自然食、マクロビオティックといったものを好む傾向がある。信条というよりも、そのほうが「おいしい」と感じるのだ。つまり食に関する「好み」の傾向としては、私は菜食主義者に近い。

私は「動物の権利」やベジタリアニズムには共感できるのだが、その支持者にしばしば見られる反市場的・反資本主義的な考え方にはずっと共感できなかった(ちなみに、その支持者の一部に見られる「スピリチュアル」な傾向にも共感できない)。その私にとって、日本を代表するリバタリアンの1人である蔵さんが、「動物の権利」やベジタリアニズムを支持しているというのは、まさに「うれしい驚き」だったわけだ。

蔵さんの場合、「リバタリアニズム」という看板を掲げていて、その専門家として知られている。その蔵さんが「動物の権利」やベジタリアニズムへの支持を公言することは、リスクもあるだろう。「動物の権利」やベジタリアニズムと、リバタリアニズムは共存しうるのか、どう折り合いをつけるのかという学問的・ポジション的な整合性もあるし、リバタリアニズムは支持するが「動物の権利」やベジタリアニズムには共感できない人を失望させ、読者やファンの離反を招くかもしれない。

しかし私にとっては、「リバタリアニズム」の専門家という地位やイメージに対するリスクや、自説の整合性という点でチャレンジが増えることを承知で、「動物の権利」やベジタリアニズムへの支持を公言するからこそ、蔵さんはますます信用できる人だと確信した。まさに「思考の一貫性」に対する信頼であり、自分の専門分野から出てリスクをとることも恐れない、こういうジェネラリスト的な態度こそ、「考える人」としての倫理だと思う。


関連:
ウィキペディア - 動物の権利
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95..
ウィキペディア - ベジタリアニズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99..

関連エントリ:
「訪問販売お断りシール」問題 相手のいやがることをする「自由」はない
http://mojix.org/2009/12/22/houmon_okotowari
「思考の一貫性」に対する信頼
http://mojix.org/2009/12/13/thought_trust
ノーラン・チャート
http://mojix.org/2008/04/20/nolan_chart
ビーガン (vegan)
http://mojix.org/2004/05/23/222514

参考:
1998年にHotWired Japanの「CAVE」というコーナーに寄稿した「科学的運動としての「アニマル・ライト」とは?」を以下に貼っておきます。「動物の権利」運動のバイブルとも言われる、ピーター・シンガー(編)『動物の権利』という本の紹介です。

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科学的運動としての「アニマル・ライト」とは?

動物の権利
ピーター・シンガー(編)

翻訳=戸田 清
発行=技術と人間(1986)

 なぜ人間を殺してはいけないのに、動物を殺してもいいのか。なぜわたしたちはペットをかわいがる一方で、牛や豚、鶏などの肉は食べるのか。動物に対するわたしたちの態度は、愛と残酷さのあいだで揺れ動き、混乱してはいないだろうか。

 「アニマルライト(動物の権利)」とは、70年代に生まれ、80年代以降、欧米を中心に拡大した運動である。アニマルライト運動は、食肉や狩猟、動物実験、動物園といったさまざまな場面で、動物が殺され、苦しめられている現状を改善しようとするものだ。アニマルライトは、感傷的な「動物愛護」とは違い、倫理や生命などの問題を視野にいれた科学的運動であり、「エコロジー以降」の世界観、問題意識にもとづいている。

 本書『動物の権利』は、アニマルライト活動家/動物解放論者から寄せられた15の論文と、編者ピーター・シンガーによるプロローグ、エピローグから成っている。「理念」「動物問題の諸相」「動物解放運動の戦略」の3部構成で、思想と実践の両面から、アニマルライト/動物解放運動の全貌をつかむことができる。

 ピーター・シンガーは、オーストラリアのモナッシュ大学哲学教授にしてヒト生物倫理学センター所長であり、1975年の著書『動物の解放(アニマル・リベレーション)』によって大きな議論を巻き起こした、アニマルライト運動の先導者である。同書は、アニマルライトの古典と見なされている。

 本書のキー・タームのひとつである、ピーター・シンガーが導入した「スピシージズム(種差別)」概念は、アニマルライト運動の倫理的側面をよくあらわしている。それは「レイシズム(人種差別)」や「セクシズム(性差別)」と同様、弁護しようのないものだとシンガーは述べる。動物を殺したり苦しめたりしてもいい、という判断を支えているのは、動物に対して人間という生物種は優位であり、よって動物を好きに扱っていいという「種差別」、これ以外の根拠がない。しかしこれは、かつて白人が黒人を奴隷扱いし、人身売買の対象にしたとき、その根拠が「人種差別」以外にありえなかったのと同様である。

 アニマルライトについて、シンガーはこう述べる。<この闘争は、新しい現象である。それは、われわれの倫理の地平が『人間』という種の壁を越えて広がることを示すものであり、人間倫理学の発展に重要な段階を画するものといえよう>。

 歴史を見れば、わたしたちの善意の及ぶ範囲、つまり自分の「帰属」意識の範囲は、徐々に広がってきていることがわかる。家族、共同体、民族、そして人類。21世紀になっても、戦争という国家間対立が起こることは十分考えられるが、それでも植民地時代などに比べれば、わたしたち人類の「一体感」が増していることは確実だろう。その一体感は、最終的には「動物」にまで広げられるべきだ、というのがアニマルライトの核心である。

 こうした考え方に倫理面ではそれほど共感できないという人も、それがもたらす実際的なメリットには目を向けるかもしれない。本書の「食用家畜と菜食主義」という章では、動物性食品の生産は、植物性食品にくらべてムダが多いというデータが引かれている。動物性食品の生産に要するエネルギーあるいは水は、同じ量の植物性食品にくらべて10倍から1000倍であり、また表土流出や水の浪費、森林破壊、水質汚染などの原因になっているという。動物を大量に殺しつづけることが、生態系や自然環境にいい影響を与えないだろうということは、いまの私たちには容易に想像がつく。

 またわたしたちの健康という面からも、コレステロールをはじめ、動物性食品の問題はしばしば指摘されるところだ。アニマルライト活動家が採用している菜食主義は、アニマルライトと無関係な人の目にも、ひとつの望ましいやり方と映るだろう。

 インターネット以降に生きる現在のわたしたちは、相手から搾取し、相手をつぶすという古い価値観よりも、相手と結びつき、互いに高めあうという新しい価値観のほうがはるかに強力であることを、身をもって知っている。そして、わたしたちが結びつき、共に生きるべきなのは、人間だけではなく、地球や生態系もそうなのである。この「共生」こそ、デジタル・ネットワークと環境問題、エコロジーといったテーマをつなぐキーワードであり、まさに「オルタナティヴ・バリュー」の中心をなす価値観のひとつにちがいない。

 アニマルライト運動は、わたしたちが思いやる「他者」の範囲を人間から動物にまで広げよ、という。「共生」という価値観に照らせば、動物に対するわたしたちの考え方や生活習慣には、たしかに再考されるべき点が少なくない。動物たちも、この「宇宙船地球号」の運転に一役かっている「乗組員(クルー)」なのだから。

桜井通開
1998.09.08