2010.08.29
日本に足りないのは「努力」ではなく、「理解」と「勇気」である
「国や政治に期待せず、自分自身がしっかりしよう」といった意見をしばしば見かける。

これ自体は間違いとは言えないが、いまの日本の状況では、こういう精神論的な見方はあまり有効ではないし、日本人の「政治への無関心」をいっそう加速しかねないところがあると思う。

私は日本人の「政治への無関心」こそ、日本の政治をダメにしている最大要因ではないかと考えている。「国や政治に期待せず、自分自身がしっかりしよう」といった意見には、自助努力を説いているだけでなく、「日本の国や政治がダメでも、あきらめよう」という含意を感じる。自助努力が重要なのはその通りなのだが、だから国や政治に無関心でいい、ということにはならない。

国や政治がどんな状態であっても、自力で生きる力はあればあるほどよい。これは自明だろう。日本より国や政治の状態がひどい国はたくさんある。そんな国でも、がんばって生きている人がたくさんいる。そんな人たちに比べれば、日本なんていう「ぬるい」国にいるわたしたちは恵まれており、がんばらないとバチが当たるだろう。

それはそうなのだが、こういう精神論的な見方というのは、「国や社会のことは考えるな、自分のことだけ考えろ」と言っているのに近いところがある。つまり、国や社会のことは「誰かに任せてしまえ」ということだ。そんな無責任な態度でいいのだろうか?国や政治に「期待」するのは確かに間違いだが、それは国や政治に「無関心」でいい、ということではないはずだ。

誰だって、日々の仕事や生活で忙しいし、自分のことだけ考えていたほうが効率的だろう。それに、国や社会について何か意見を発すれば、対立が生じたり、反感を買ったりもする。「処世術」的には、政治については語らないほうがおそらくいいのだろう。しかし、それでいいのだろうか?みんなが「処世術」的に生きてばかりいて、国や政治に「無関心」であることこそ、日本がダメになった原因ではないだろうか?

日本の問題の多くは、国民の努力が足りないのではなく、政府が強い規制と高い税金によって、民間をジャマしていることから生じている。「国民が政府に頼っている」という以上に、「政府が国民に頼っている」のだ。わかりやすくいえば、「政府が国民に寄生している」のである。

「国や政治に期待せず、自分自身がしっかりしよう」と思った人が、自分で力をつけて、起業したとする。するととたんに、強い規制と高い税金が眼前に立ちはだかるのだ。いくら稼いでも、税金で半分持って行かれる。人を雇ったら解雇できないから、雇えない。国や政治に期待しているわけではないのに、国や政治にジャマされてしまうのだ。

日本では万事がこの調子であり、「がんばればがんばるほど報われない」ようなところがある。この日本の不条理な構造は、がんばった人ほどそのカベにぶち当たるので、身体でわかっているだろう。これでは、「がんばる」ことがバカバカしくなってくる。むしろ、「がんばらずに、国に頼ったほうがラクだ」と考えたほうが、合理的かもしれない。

日本の問題とは「政府が国民に寄生している」ことであり、これが国民の努力を帳消しにしていて、そのうえ努力するインセンティブを削いでしまっているのだ。

「国や政治に期待せず、自分自身がしっかりしよう」といった意見が有効なのは、国や政治の側がまあまあマトモで、いっぽう国民の側がだらしない、という場合だろう。いまの日本は、まったくその反対である。国民はがんばっているのに、国や政治がそれをジャマしているのだ。間違った制度設計のために国が凋落しており、「犠牲者」も少なくない。この現状に対して問題意識を持つことは、国民として当然だろう。

日本の国民に非があるほとんど唯一の点が、「政治のことを考えていない」ことなのだ。政治のことを考えていないために、一部の人間が「国を私物化」することを許してしまい、それが国民の努力を無にしていることにも気づかない。そのうえ「国や政治に期待せず、自分自身がしっかりしよう」なんて言うのだから、「国を私物化」している連中は笑いが止まらないだろう。国民が「お人よし」すぎて、「カモ」にされているのだ。

いまの日本においては、国民に「努力」を説く方向のお説教はほとんど無意味だと思う。「努力」が足りないのではなくて、構造を理解していない「無知」が問題なのだ。あるいは、構造を理解していても「処世術」のために意見を言わないことが問題なのであり、それを超えて意見を言う「勇気」が足りないのだ。

「努力」が足りないのではなく、「理解」と「勇気」が足りないというのは、政治にとどまらない、いわば「日本の精神構造」みたいなものかもしれない。これが日本の「ビジネスモデル」にも直結していて、日本経済の成長と衰退にも重なっている気がする。

高度成長時代は「重厚長大」産業だったので、大資本や単純労働の集約が有効だった。国を挙げての「努力」というガンバリズムで、一致団結して成功できたわけだ。しかし知識産業の時代になり、労働力の安い新興国も多数出てきている現状では、大資本や単純労働の集約よりも、「有能な個人」をいかに集め、伸ばせるかで勝負が決まる。才能のある人間を伸ばすことをせず、「みんないっしょ」に封じ込める日本方式は、最も希少な資源を潰しているのに等しい。「がんばればがんばるほど報われない」不条理な構造によって、日本は「有能な個人」という最も希少な資源を潰したり、海外に流出させてしまっている。

このような構造(制度)を「理解」していないこと、あるいは理解しているのに、それを変革する「勇気」を持っていないことが、日本の衰退をもたらしているのだろう。日本に足りないのは「努力」ではなく、「理解」と「勇気」である。


関連エントリ:
「内向きの精神論」と「外向きの精神論」
http://mojix.org/2010/06/21/two-seishinron
「会社に人が属する」のではなく、「人に会社が属する」時代
http://mojix.org/2010/03/06/hito_kaisha_jidai
「精神論」より「制度論」を
http://mojix.org/2009/07/19/seishinron_seidoron
日本をダメにしたのは誰か
http://mojix.org/2009/05/15/nihon_dame