2010.10.14
右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念ではなく、独立概念である
先日の「ナチスの「25カ条綱領」は日本人必読では」は反響が大きく、ツイッターでも、はてなブックマークでも、たくさんのコメントがあった。そこで書き足りなかった部分などについて、いくらか補足したい。

政治に詳しい人であれば、私のエントリに対して、「ナチスは国家社会主義なのだから、そこに社会主義が含まれていること、つまり左翼的な政策が含まれているのは自明であり、言うまでもない」と感じたかもしれない。

あるいは、社会主義に共感している人であれば、「ナチスの問題はもっぱら国家主義の側面にあるのに、社会主義の側面だけ取り出すのはフェアではない」と感じたかもしれない。

私が「ナチスの「25カ条綱領」は日本人必読では」において、ナチスの「国家社会主義」のうち「社会主義」の側面だけを取り出したのは、ナチスの「国家主義(ナショナリズム)」の側面はすでによく知られており、言うまでもないと考えたからだ。ナチスの一般的なイメージは、「国家主義」であり、「軍国主義」であり、「右翼」だろう。

いっぽう、ナチスの「国家社会主義」のうち「社会主義」の側面については、日本ではそれほど広く知られてはいないように思う。だから、このエントリを書く意義があるのではないかと考えたのだが、実際に反響が大きかったのを見ても(もちろん賛否両論だが)、それなりに書く意義があったのだろう。

ここで面白いのは、なぜナチスの「社会主義」「左翼」の側面はあまり知られていないのか、ということだ。これ自体、重要な論点を含んでいると思う。

なぜ、ナチスの「社会主義」「左翼」の側面はあまり知られていないのか。その理由は、

「右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念と思われているが、実は独立概念である」

というのが大きいように思う。

「右翼」と「左翼」というのは、言葉の上では反意語に見えるので、反対概念であると思われてしまいやすい。よって、ナチスは「右翼」「国家主義」であるというイメージが固まると、ナチスは「左翼」「社会主義」ではない、という認識が自然に形成されやすいのだと思う。「右翼」と「左翼」は反対のもので、共存しえないと思われているからだ。

しかし実際のところは、右翼(国家主義)と左翼(社会主義)というのは反対概念ではなく、独立概念なのである。そして、ナチスというのはまさに、右翼(国家主義)と左翼(社会主義)が合体したものなのだ。ナチスにおいて、右翼(国家主義)と左翼(社会主義)が共存しているということ自体が、その2つが反対概念でなく、独立概念であることを示している。

このことを図であらわしてみると、こんな感じだ。



これは、リバタリアニズムの政治思想的ポジションを説明するのにしばしば使われる「ノーラン・チャート(Nolan Chart)」に、若干補足したものだ。

ヨコ軸が「経済的自由」の度合いで、「社会主義」はいわば「経済的不自由」と位置づけられる。「社会主義」では、政府が市場経済に介入し、国民のカネを政府が取り上げて、その使い方を政府が決める。

タテ軸が「精神的自由」の度合いで、言論や思想、ライフスタイルなどの自由度を示す。「国家主義」はこの側面での自由を奪い、民族的アイデンティティに訴えて、国民を統制しようとする。

このように見れば、ナチスというのは「社会主義」と「国家主義」が合体したものであることが理解しやすくなる。それは「経済」と「精神」の両面で国民から自由を奪い、強制して、ひたすら政府の権限を拡大させる。これが「全体主義」であり、図では左下になる。

これと正反対なのが右上のリバタリアニズムで、個人の「経済的自由」と「精神的自由」の両方を最大化することを支持する。この両方の自由が政府によって侵害されることを嫌うので、政府をできるだけ小さくする「小さな政府」を支持する立場になる。

左翼は通常、社会主義を支持して国家主義を支持しないので、左上になる。いっぽう右翼は通常、国家主義を支持して社会主義を支持しないので、右下になる。

そして、ここまで理解すれば、右翼と左翼はやはり反対側に位置しているので、先ほどの

「右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念と思われているが、実は独立概念である」

という言い方は、正確ではないことがわかる。

独立概念なのは、「国家主義」(タテ軸)と「社会主義」(ヨコ軸)である。そして、「国家主義」というのは右翼の主要成分、いわば「右翼性」であり、「社会主義」というのは左翼の主要成分、いわば「左翼性」である。

つまり、ナチスというのは「右翼性(国家主義)」と「左翼性(社会主義)」を両方持った「全体主義」だ、ということになる。先ほど、ナチスは「右翼(国家主義)と左翼(社会主義)が合体したもの」と書いたのは、このことを意味している。

かんたんに言えば、ナチスは「右翼かつ左翼」であり、リバタリアニズムは「右翼でも左翼でもない」。この2つの立場は、右翼と左翼を1次元的に反対概念として捉えている限り、なかなか理解できないだろう。上のノーラン・チャートのような2次元的把握によってこそ、それが理解できると思う。

ナチスのような悲劇を繰り返さないためには、それを忘却するのではなく、それがどのようなものであったのか、どのように成立したのか、なぜ支持を集めたのかを知っておく必要がある。特に日本は、個人の「自由」に対する意識が希薄であり、「他人と異なること」への圧力が大きいなど、全体主義に通じやすい精神的土壌がある。実際、いちど全体主義が生じたという「前科」があるのだ。

日本には、問題を「構造」的・「システム」的に理解するのではなく、「ワルモノ」のせいにして片付けてしまいやすいところがある。これだと、「ワルモノ」をいくら罰したり、排除しても、問題を引き起こす「構造」「システム」がなくならないので、いくらでも「ワルモノ」が出てくる、ということになる。

ナチスについても、自分とは関係ない「ワルモノ」が引き起こしたのだ、と日本では考えられがちではないだろうか。こういう考え方はナイーブであり、危険ですらある。それは、自分は「善」であり、問題を引き起こすのは「ワルモノ」なのだから、自分は関係ないし、自分が問題に加担することはない、という過信の上に成立している。このような考え方、自分は「善」で、問題を引き起こすのは「ワルモノ」だと安易に線引きしてしまう考え方は、実はヒトラーの考え方にそっくりではないだろうか。

おそらくほとんどの人が、自分は「善」だと考えているだろうし、実際にたいていの人が「善人」だろうと思う。しかし、何が「善」かという考え方はいろいろあるし、また実際は「善人」なのに、「構造」や「システム」のために、悪いふるまいをせざるをえない場合もある。重要なのは、(1)さまざまな「善」があることを前提として、自分の「善」を他人に強制しないことと、(2)個別の犯罪ではない社会問題については、「ワルモノ」が引き起こしているのではなく、「構造」や「システム」に原因があること、この2つを理解することだと思う。


関連エントリ:
ナチスの「25カ条綱領」は日本人必読では
http://mojix.org/2010/10/11/national-socialist-program
「内向きの精神論」と「外向きの精神論」
http://mojix.org/2010/06/21/two-seishinron
ノーラン・チャート
http://mojix.org/2008/04/20/nolan_chart