2010.10.15
世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼
昨日のエントリ「右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念ではなく、独立概念である」に対するはてなブックマークのコメントで、経済学者の松尾匡(ただす)氏による「右翼と左翼」の用語解説にリンクがあった(bando_alphaさんによる)。

松尾匡のページ - 用語解説:右翼と左翼
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_uyosayo.html

<世界を縦に切って「ウチ」と「ソト」に分けて、その間に本質的な対抗関係を見て、「ウチ」に味方するのが右翼である。
 それに対して、世界を横に切って「上」と「下」に分けて、その間に本質的な対抗関係を見て、「下」に味方するのが左翼である(図1)>。



<ところがややこしくなるのは、まずもって、右翼も左翼も自分の切り分け方を当然の土俵のように思い込んで、相手との対抗軸を組み立てていることにある。お互い敵である相手が、自分と同じ切り分け方を共有して、自分と逆側に立つ者と考えるのである(図2)>。



<すなわち、左翼の考える敵=右翼は、世界を横に切って「上」と「下」に分けて、「上」に味方する者とみなされている。
 それに対して、右翼の考える敵=左翼は、世界を縦に切って「ウチ」と「ソト」に分けて、「ソト」に味方する者とみなされている>。

これは実に本質的かつシンプルな説明で、見事な解説だと思う。

この松尾氏による図式では、左翼と右翼が「世界(の人々)をどのように分けるか」が主題になっている。左翼は「上下」に分けて「下」に味方し、右翼は「左右」に分けて「右」に味方している(「ウチ」を右側に、「ソト」を左側に描いた場合)。左翼と右翼では、線引きする方向が違っており、基準になる軸そのものが直交しているわけだ。

この図と、昨日のエントリで私が描いたノーラン・チャートを比べてみてほしい。



このノーラン・チャートでは左翼が左上にあるが、左方向の「社会主義」が主要成分である。右翼が右下にあるが、下方向の「国家主義」が主要成分である。左翼を「左」に、右翼を「下」にあると見なせば、これはちょうど、松尾氏による図を時計回りに90度回転したものになっているのだ。

松尾氏の図が、左翼と右翼が「世界(の人々)をどのように分けるか」が主題になっているのに対して、ノーラン・チャートでは、「経済的自由と精神的自由に対して、政府が介入してくる度合い」が主題になっている。この2つの主題は、どのような関係にあるだろうか。なぜ、この2つの図はそっくりになるのか。

松尾氏の図は、左翼と右翼の「世界観」の違いを描いている。では、左翼と右翼はその「世界観」のなかで、どのように「敵」をやっつけようとするだろうか。もし、直接自らの手で「敵」をやっつけようとすれば、犯罪になってしまう。よって、政治を動かして、国の力を使って合法的にやろうとする。左翼の願いを政策にしたものが「社会主義」であり、右翼の願いを政策にしたものが「国家主義」なのだ。これが、2つの図がそっくりになる理由だろう。

どちらの図においても、左翼と右翼は1次元的な対立関係にはなく、「上下」と「ウチソト」、「経済的自由」と「精神的自由」という2つの軸を持つ、2次元座標の上に配置されている。この2次元的な把握ができれば、左翼と右翼を1次元的に反対のものと見るよりも、政治に対するさまざまな考え方・立場の位置づけが格段にやりやすくなるし、自分の考え方はどこに位置するのかというポジションの把握もやりやすくなると思う。

ちなみに私自身は、このブログでもたびたび書いているように、ノーラン・チャートでは右上のリバタリアニズム・自由主義を支持している。私の考え方はリバタリアニズム・自由主義に近いんだという自覚を得るのに、このノーラン・チャートを知ったことがすごく役にたった。それ以前の私は、右翼にも左翼にも共感できないし、共感できる政党もひとつもないので、自分はノンポリなんだと思っていた。

面白いことに、リバタリアニズムやノーラン・チャートを知ってからは、政治というものへの興味が増して、むしろ右翼にも左翼にも(一部は)共感できるようになった。それぞれの立場に、それなりの理由や動機があることがわかったのだ。言いかえれば、みんな「善人」であり、「ワルモノ」ではないことがわかった、と言ってもいい。それぞれの立場で、それぞれの「善」があるのだ。そのさまざまな「善」が衝突するので、自分の「善」と違うものは、「ワルモノ」に見えるわけだ。

リバタリアニズムというのは、そのさまざまな「善」のどれが正しいかは決められないので、互いの「善」を押しつけたり、強制しないようにしよう、という考え方である。かんたんにいえば、お互いの「自由」を尊重しよう、ということだ。

この意味で、リバタリアニズムというのは特定の考え方を押しつけるものではなく、「あなたの考え方を尊重します。ただし、私の考え方も尊重してください。互いに強制はしないことにしましょう」という基本的な取り決めに近いものだ。この基本的な取り決めに合意できない人というのは、「自分の考えは絶対に正しいので、他人にも強制する」という考え方の人しかいないと思う。

他人に強制するというのは、他人の自由を侵害することであり、「他人の自由を侵害する自由」を認めてしまうと、全員の自由が崩壊してしまう。よって、リバタリアンであっても「他人の自由を侵害する自由」は認めない。よく、リバタリアニズムは無法地帯だとか、弱肉強食だといった誤解があるが、これは間違いだし、むしろまったく逆だ。リバタリアンこそ、他人から強奪するような侵害行為をもっとも嫌っている。リバタリアニズムは自由を尊重するが、他人から強奪したり、他人の自由を侵害する自由は認めない。これはリバタリアニズムを支持するかどうかに関係なく、あたりまえのことではないだろうか。リバタリアニズムは、特に突飛なことを言っているわけではなく、そのあたりまえの原則にこだわるという立場である。


関連エントリ:
右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念ではなく、独立概念である
http://mojix.org/2010/10/14/left-and-right
さまざまな「社会設計」の自治体が競争するメタ社会
http://mojix.org/2008/11/03/meta_society
10個の質問に答えるだけで自分の政治的位置がわかる
http://mojix.org/2008/04/28/worlds_smallest_political_quiz
ノーラン・チャート
http://mojix.org/2008/04/20/nolan_chart