2011.01.23
地元の冠婚葬祭を週に80件まわる国会議員 「いつ選挙があるかわからん我々は、政策なんていっておれんぞ」
ダイヤモンド・オンライン : 田村耕太郎の「坂の上に雲はない!」 - 国会議員の当選回数を制限せよ 地元の冠婚葬祭は出入り禁止だ!
http://diamond.jp/articles/-/10832

<日本の政治を変える提言として、今回は期数制限と冠婚葬祭への出入り禁止を挙げたい。期数制限で政治人生の尻を切られた政治家は加速して働くようになる。新陳代謝も進み、経済基盤がしっかりした政治家が増える>。

先ごろからダイヤモンド・オンラインで始まった、田村耕太郎氏の連載「坂の上に雲はない!」。日経ビジネスオンラインの「田村耕太郎の「経世済民見聞録」」同様、こちらも面白くて、田村氏のファンとしてはうれしい新連載である。

今回の内容はタイトル通り、「国会議員の当選回数を制限せよ」、「(国会議員が)地元の冠婚葬祭へ出入りするのを禁止せよ」という2つの提言を含んでいる。ここでは、そのうち2つめの提言について採りあげてみたい。

田村氏は政治家になりたての頃、大先輩からこういう話を聞かされたという。

<「田村君、俺は家内と俺で一週間に何件の冠婚葬祭に出てるか知っているか?」と問われた。私は自分の経験から推し量り「一週間でしょ。20件ですか?」と答えた。その先輩は声を荒げ「何言ってんだ。80件だよ」。背広の裏ポケットから「白いネクタイ」「黒いネクタイ」「手袋」「数珠」、はては「ハサミ」まで手品師のように出てくるものを、披露してくれた>。

<大先輩議員は「これで緊急の冠婚葬祭にも対応できる」と胸を張る。しかし、ハサミを持っている意味は理解できない。そこで「でもハ、ハサミは何のためですか?」と私が聞いてしまった。すると「これは呼ばれていないテープカットに出るときだ。チョキで切るわけにはいかんだろう」と大声で笑いながら、驚愕の返答をしてくれた>。

<「なりたての君には正直に教えてやるが、いつ選挙があるかわからん我々は、政策なんていっておれんぞ」と大先輩は親身になって指導してくれた。ありがたい話だが、違和感を感じざるを得なかった。地元の声を聞くといえば、聞こえはいいが、とにかくマメに顔を出して義理堅いところをアピールする。特に地方の有権者は“人としての接触”を最も評価しがちだ。「あの先生はうちのじいちゃんの葬式に来てくれた」「わしの孫の結婚式に出て華を添えてくれた」という要素は投票行動を大きく左右する>。

政治家が地元の冠婚葬祭や運動会、種々の会合などに顔を出しまくる、という話はよく聞く。これも「ドブ板選挙」の一種と言えるだろう。

「いつ選挙があるかわからん我々は、政策なんていっておれんぞ」という、この先輩議員の言葉にはあきれてしまう。しかし、これが日本の現実なのだ。ひたすら地元の冠婚葬祭をまわり、選挙の「営業活動」に明け暮れる議員も問題だが、それで当選できてしまうという「構造」こそが、根本的な問題だろう。

これを防ぐために、田村氏は国会議員に対して、<地元での冠婚葬祭への出入りを禁止する>ことを提言している。しかし、これは「禁止」によって解決する問題なのだろうか。

以前、国会議員の世襲を制限せよという議論が盛んだったことがある。これに対して、私は「政治家の世襲はまったく問題ない」、「国民が世襲政治家を望んでいないなら、世襲政治家に投票しないはずだ」といったエントリで、問題があるのは世襲政治家ではなく、世襲政治家に票を入れる有権者の側であるという旨のことを書いた。

<世襲の政治家を選ぶか、世襲でない政治家を選ぶか、国民にはそれを自ら選択する「自由」があるべきだ。その選択が愚かな判断になる可能性があるとしても、世襲制限という「強制」によって、その選択の「自由」を最初から奪うべきではない>。

この世襲の話と、今回の冠婚葬祭をまわる政治家の話は似ている。冠婚葬祭をまわっていたからといって、それだけでダメな政治家とは限らない。冠婚葬祭によく顔を出していて、かつ政治家としても優秀だということはありうる。

世襲の話と同様、ここでも問題なのは、政治家でなく有権者の側だろう。ダメな政治家なのに、冠婚葬祭によく顔を出しているということをもって、票を入れてしまう有権者がいるのだ。これがダメなのである。

政治家をその本来の仕事である「政策」で判断するのではなく、こういうコネやつながりで票を入れてしまう有権者というのは、「コネ採用」をしている会社に似ている。こういう有権者が少なからずいて、冠婚葬祭や運動会などで顔を売ることがそれなりに効果的だからこそ、政治家はその「営業活動」にいそしむわけだ。

コネやつながりで票を入れる有権者を、完全に撲滅することは不可能だろうし、その必要もない。そのような「コネ採用」をする有権者が少数派になり、多数派はちゃんと「政策」によって政治家を選ぶ、というふうになればいいのだ。それが実現するには、国民に一定の「政治リテラシー」が必要だろう。

世襲を禁止したり、冠婚葬祭への出席を禁止するというのは、一種のパターナリズムである。国民は自分でまともな政治家を選ぶ能力がないので、劣っていそうな選択肢をあらかじめ封じておくという方法だ。これはちょうど、子供が何かを壊したり、触ってケガをしたりしないように、危険なものを遠ざけておくというのに似ている。政府のパターナリズムとは、まさに国民を子供のように見なすことだ。

しかし、子供をいつまでも甘やかし、危険から遠ざけておくのでは、永遠に大人になれない。いくらか危険をともなうとしても、経験をひろげていき、学習を積んでいく必要がある。

日本の有権者に「政治リテラシー」が欠けていて、まともな政治家を選べないというのが現実だとしても、パターナリズムによって有権者の選択肢をあらかじめ封じるというのでは、永遠に「成長」できない。ここはむしろ、「政治リテラシー」が欠けているとどうなるのか、という「痛み」をもっと味わうべき局面だと思う。

パターナリズムという「救いの手」よりも、むしろこの「痛み」のほうが、有権者を成長させる。実際、いまの民主党政権において、日本国民はまさにこの「痛み」を感じながら、政治というものの重要性をひしひしと感じているのではないか。


関連エントリ:
政治家にとって選挙は「営業活動」である
http://mojix.org/2010/07/07/seiji-eigyou
ドブ板選挙は「コネ採用」みたいなものだ
http://mojix.org/2009/12/26/dobuita_senkyo
国民が世襲政治家を望んでいないなら、世襲政治家に投票しないはずだ
http://mojix.org/2009/04/29/seijika_seshuu2
政治家の世襲はまったく問題ない
http://mojix.org/2009/04/25/seijika_seshuu