議論はなんの役に立つか
Chikirinの日記 - 「話し合って決める」という幻想
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120813
<お気づきの方も多いと思いますが、ちきりんはネット上で議論をしません>。
<ブログで、トラックバックを使って他の方の主張に議論をふっかけることもないし、ふっかけられた議論を受けることもほとんどないです。私のブログは、私の考えたこと(思考、主張)を広く開示しているだけのものです>。
<ツイッター上でも「会話」をすることはあるけど、「議論」はしないです。ネット上で議論をしない最大の理由は「非効率だから」です。別の言い方では「時間の無駄だから」>
これは実にChikirinさんらしい、痛快なエントリだ。
<いったい「議論する意味」はどこにあるのでしょう? 合意すること? 意見をまとめること?>
<世の中のすべての人の意見が「一致する」などということは起こりえません。いくら話し合い、議論しても、結果としてみんなの意見が一致した、などということは、ほぼないんです>。
<起こりうるのは「一部の人に、自分の意見を放棄させる」ということだけです。話し合って合意に達したように見える状況を思い浮かべて下さい>。
<そこで起こったことは、「議論を通して、全員が同じことを信じるようになった」ということではありません。一部の人が「まあいいや、お前の判断に従おう」と考えたから合意に至ったのです。「今回はそっちの方法でやってみようと思った」というだけです>。
<一緒に会社を経営しているとか、夫婦が子供にお受験をさせるかどうかを決めるとか、「合意に達する必要がある時」はよくあります。そういう時は、皆、議論をします>。
<こういった議論の目的は「話し合っている人達の意見を同じにする」ことではなく、「どちらかに、自分の意見を放棄させる」ことです>。
<「話し合って決める」ということは、そういうことなんです>。
まったく、その通りだと思う。いわゆる「合意」というのは、物事を前進させるための妥協でしかない。「合意」する必要がない場合は、合意しないままでいいのだ(関連:「意見がバラバラなのは、自由の証(あか)し」)。
<ちきりんはよく「多様性を尊重すること」の重要性を書いています。それはまさに「話し合って、議論して、誰かの意見を放棄させる必要はない」という意味です>。
<時々、「多様性を尊重すると言っているのに、なぜ議論に応じないのか?」と言われますが、反対です。多様性を尊重したいからこそ、議論しないのです。議論して、どっちかがどっちかを説得するなんて無意味でしょ?>
このあたりの考え方についても、わりとChikirinさんに同感ではあるのだが、ここまで言いきってしまうと、議論はまるで無意味なのか?という気もしてくる。
まず、議論ではない単なる罵倒、ディスり合いが論外なのは当然である。ポジショントーク批判、属性批判もよく見かけるが、これも論旨によらない低劣な反論で、罵倒と変わらない(関連:「ポジショントーク大歓迎」、「反論ヒエラルキー」)。
相手を尊重し、中身で議論する、というのはマトモな議論の必要条件である。しかしそれでも、議論によって「考えが変わる」ということは、あまりないだろう。これまでに形成されてきた自分の信念や考えが、たった1回の議論で変わるはずがない。つまり、議論というものは「考えを変える契機」にはなりにくいのだ。
では、議論そのものが無意味かというと、そうでもないと思う。議論は役に立つこともある。なんの役に立つかというと、少なくとも「考えの違いを際立たせる」効果がある。
右翼と左翼が議論するとしよう。この議論に意味はあるだろうか。互いに罵倒しているだけであれば、たしかに意味がない。ネットで見られる議論でも、罵倒の域を出ないものが少なくないが、これも意味がない。
しかし、もし右翼と左翼が、自分の考えや信念、自分が大事にしている価値観、それがどのように社会に役立つのか、といった中身について話すならば、これは意味があると思う。「合意」に至ることがなくても、ちゃんと中身のある議論をするならば、少なくとも「考えの違いを際立たせる」効果がある。言論が直接ぶつかることで、考え方の「多様性」もより明確になるだろう。
右翼と左翼の議論が、もし罵倒に満ちたものであれば、それを見ている人は、右翼にも左翼にも共感しないだろう。しかし、もしそれが中身のある議論で、一定の説得力があれば、心を動かされるかもしれない。その議論が刺激になって、「自分自身はどう考えるのか?」と問い直す契機になるかもしれない。もしそのようなことが起きたら、それは「議論が役に立った」と言えると思う。
関連エントリ:
意見がバラバラなのは、自由の証(あか)し
http://mojix.org/2012/07/17/iken-barabara
考え方は違うが、話はできそうな人
http://mojix.org/2011/04/21/kangaekata-hanashi
コミュニケーションはコラボレーション
http://mojix.org/2008/11/09/communication_is_collaboration
反論ヒエラルキー
http://mojix.org/2008/04/13/disagreement_hierarchy
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120813
<お気づきの方も多いと思いますが、ちきりんはネット上で議論をしません>。
<ブログで、トラックバックを使って他の方の主張に議論をふっかけることもないし、ふっかけられた議論を受けることもほとんどないです。私のブログは、私の考えたこと(思考、主張)を広く開示しているだけのものです>。
<ツイッター上でも「会話」をすることはあるけど、「議論」はしないです。ネット上で議論をしない最大の理由は「非効率だから」です。別の言い方では「時間の無駄だから」>
これは実にChikirinさんらしい、痛快なエントリだ。
<いったい「議論する意味」はどこにあるのでしょう? 合意すること? 意見をまとめること?>
<世の中のすべての人の意見が「一致する」などということは起こりえません。いくら話し合い、議論しても、結果としてみんなの意見が一致した、などということは、ほぼないんです>。
<起こりうるのは「一部の人に、自分の意見を放棄させる」ということだけです。話し合って合意に達したように見える状況を思い浮かべて下さい>。
<そこで起こったことは、「議論を通して、全員が同じことを信じるようになった」ということではありません。一部の人が「まあいいや、お前の判断に従おう」と考えたから合意に至ったのです。「今回はそっちの方法でやってみようと思った」というだけです>。
<一緒に会社を経営しているとか、夫婦が子供にお受験をさせるかどうかを決めるとか、「合意に達する必要がある時」はよくあります。そういう時は、皆、議論をします>。
<こういった議論の目的は「話し合っている人達の意見を同じにする」ことではなく、「どちらかに、自分の意見を放棄させる」ことです>。
<「話し合って決める」ということは、そういうことなんです>。
まったく、その通りだと思う。いわゆる「合意」というのは、物事を前進させるための妥協でしかない。「合意」する必要がない場合は、合意しないままでいいのだ(関連:「意見がバラバラなのは、自由の証(あか)し」)。
<ちきりんはよく「多様性を尊重すること」の重要性を書いています。それはまさに「話し合って、議論して、誰かの意見を放棄させる必要はない」という意味です>。
<時々、「多様性を尊重すると言っているのに、なぜ議論に応じないのか?」と言われますが、反対です。多様性を尊重したいからこそ、議論しないのです。議論して、どっちかがどっちかを説得するなんて無意味でしょ?>
このあたりの考え方についても、わりとChikirinさんに同感ではあるのだが、ここまで言いきってしまうと、議論はまるで無意味なのか?という気もしてくる。
まず、議論ではない単なる罵倒、ディスり合いが論外なのは当然である。ポジショントーク批判、属性批判もよく見かけるが、これも論旨によらない低劣な反論で、罵倒と変わらない(関連:「ポジショントーク大歓迎」、「反論ヒエラルキー」)。
相手を尊重し、中身で議論する、というのはマトモな議論の必要条件である。しかしそれでも、議論によって「考えが変わる」ということは、あまりないだろう。これまでに形成されてきた自分の信念や考えが、たった1回の議論で変わるはずがない。つまり、議論というものは「考えを変える契機」にはなりにくいのだ。
では、議論そのものが無意味かというと、そうでもないと思う。議論は役に立つこともある。なんの役に立つかというと、少なくとも「考えの違いを際立たせる」効果がある。
右翼と左翼が議論するとしよう。この議論に意味はあるだろうか。互いに罵倒しているだけであれば、たしかに意味がない。ネットで見られる議論でも、罵倒の域を出ないものが少なくないが、これも意味がない。
しかし、もし右翼と左翼が、自分の考えや信念、自分が大事にしている価値観、それがどのように社会に役立つのか、といった中身について話すならば、これは意味があると思う。「合意」に至ることがなくても、ちゃんと中身のある議論をするならば、少なくとも「考えの違いを際立たせる」効果がある。言論が直接ぶつかることで、考え方の「多様性」もより明確になるだろう。
右翼と左翼の議論が、もし罵倒に満ちたものであれば、それを見ている人は、右翼にも左翼にも共感しないだろう。しかし、もしそれが中身のある議論で、一定の説得力があれば、心を動かされるかもしれない。その議論が刺激になって、「自分自身はどう考えるのか?」と問い直す契機になるかもしれない。もしそのようなことが起きたら、それは「議論が役に立った」と言えると思う。
関連エントリ:
意見がバラバラなのは、自由の証(あか)し
http://mojix.org/2012/07/17/iken-barabara
考え方は違うが、話はできそうな人
http://mojix.org/2011/04/21/kangaekata-hanashi
コミュニケーションはコラボレーション
http://mojix.org/2008/11/09/communication_is_collaboration
反論ヒエラルキー
http://mojix.org/2008/04/13/disagreement_hierarchy