2008.11.30
民間による「公共」
リバタリアン、つまりリバタリアニズムを信奉する人は、政府を最小化すべし、政府は不要、などと主張する。一般人から見て、これが過激な主張に思えるのは、「政府がなくなったら、「公共」はどうするのか?」という疑問があるからだろう。

一般人は、「公共」は政府がやるものだ、と思い込んでいる。だから、「政府はいらない」というリバタリアンの主張が、「公共はいらない」というのと同じに聞こえるのだ。ルールのない、弱肉強食だけの恐ろしい世界といったイメージだろうか。

リバタリアンは、政府はほとんど(あるいはまったく)いらないと考えているが、「公共」まで不要だと考えているわけではない。「公共」も民間でやれるし、そのほうが効率がいい、と考えているのだ。リバタリアンは、政府は非効率であり、むしろ「反公共」になりやすいと考える。

リバタリアンは、政府よりも民間の力を信じている。強制的に税金を集めて「公共」をやらなくても、世の中に必要とされている「公共」があるならば、必ずどこかの企業や、熱心な誰かがやるだろうと信じている。リバタリアンは、市場の効率性と、人間の自発性を信じているのだ。

リバタリアンは、自由を愛し、強制を憎む。上から何かを強制するよりも、各人が自由に、自主的にふるまうようにしたほうが、より多くの価値が生まれ、社会も効率よく回って、長期的に存続できると信じている。

公共はタダでは手に入らない。私たちは政府に税金を払って、公共サービスを受けている。しかしわたしたちが払っている税金と、わたしたちが受けている公共サービスは、釣り合っているのだろうか?そもそも、人によって必要な公共サービスは異なる。ほとんど誰も必要としていないような公共サービスに、多額の税金がつぎ込まれていないだろうか?

どっちみち「公共はタダでは手に入らない」のだから、公共サービスも民間会社が提供して、それを必要とする人だけが買えばいいのではないだろうか?こうすれば会社間で競争も起きるので、健全な市場原理が働いて、ダメな会社は淘汰され、リーズナブルなサービスだけが残るだろう。これがリバタリアンの考え方だ。

独占禁止法の精神に照らせば、政府こそ公共サービスを独占している事業体であり、公益に反しているのではないか。年金問題などによくあらわれているように、そこに競争がないために、効率が悪く、責任もうやむやで、公正さが失われている。「公共」も民間が担うようになれば、競争が生まれ、効率と公正さがもたらされるはずだ。


関連:
ウィキペディア - 独占禁止法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC..

関連エントリ:
さまざまな「社会設計」の自治体が競争するメタ社会
http://mojix.org/2008/11/03/meta_society
小さな政府、大きな市民社会がつくる「新しい公共」
http://mojix.org/2008/10/27/small_gov_big_civil_society
政治的に正しくない政治ガイド
http://mojix.org/2008/10/25/politically-incorrect-guide
フェアな競争こそが、価値と生産性を引き出す
http://mojix.org/2008/10/18/fair_competition