2009.02.17
マッチョもいろいろ 精神論では何も解決しない
派遣切り・「社会が悪い」は本末転倒(奥谷禮子・人材派遣会社ザ・アール社長)
http://news.goo.ne.jp/article/php/business/php-20090216-04.html

<そこで契約更新にならない可能性が少しでもあるならば、契約社員を続けながら、不測の事態に備えておくべきではなかったか。たとえば、しっかり貯金をする。「お金が三○○円しかありません」という声を聞くたび、どうしてあのような状況が生まれるのか不思議に思う。毎月の給与からたとえ一万円ずつでも貯金していけば、三年間で三六万円。そのくらいの蓄えがあれば、最低でも次のアパートを探すくらいはできるはずではないか>。

奥谷氏は、この雇用問題で経営サイドの立場を代弁する人としてマスメディアから引っぱりダコのようだが、こういう精神論では何も解決しないと思う。

精神論とは、要するに「もっとしっかりしなさい」という説教のバリエーションだ。そんなことは、派遣だろうが正社員だろうが経営者だろうが、誰に対しても言える。どこにでも、しっかりしている人間としっかりしていない人間が、一定の割合で存在する。

責められるべきなのは「しっかりしていない人間」ではなく、強制力のある制度や税金という「仕組み」であり、要するに政府だ。他者に強制できる存在は政府しかないわけで、民間人も民間企業も、誰に対しても何も強制できない。その意味では、「つねに政府が悪い」と言ってもいい。

しっかりしていない人間は、しっかりしていないけれども、誰に対しても、何も強制していない。生活保護をもらいすぎな人間がいるのだとすれば、それはその人間が悪いのではなく、制度が不完全だから利用されているのだ。日本では税制・年金・生活保護などのセーフティネットが一貫した設計を持っていないから、そこに寄りかかる人間や、困ってもいないのにもらいすぎな人間が出てくる。

解雇規制に反対するような私の考え方に対して、ネットの一部で「マッチョ」という評価を受けることがある。「マッチョ」の正確な定義はわからないが、使われる場面からすると、「弱肉強食的な経済社会を肯定する見方」「経営者サイドの見方」といったものらしい。私は自由主義者・市場原理主義者・リバタリアンなので、「マッチョ」と言われればその通りだと思う。

しかし同じ「マッチョ」でも、上記の奥谷氏のような「精神論マッチョ」はぜんぜんダメだと思っている。解雇規制の例を見ればわかるように、規制があるからこそ、それに対する企業や人の「適応行動」が生じて、採用時の属性差別も強まり、それが「社会階層」の形成すら促進してしまいかねない。自由競争の結果として勝敗が生じるのはフェア(公正)だと思うが、最初から自由競争を阻害し、機会を奪うのはフェアではない。

こうした市場介入的な規制が多すぎること、そして税金が高すぎること(これは政府によるムダ使いと表裏一体だ)、この2点が日本の「問題の中心」であって、その「制度設計」を変えなければ、問題は解決しない。

そのように考えるという意味では、私は「構造改革マッチョ」だと言ってもいい。「構造改革マッチョ」から見ると、奥谷氏のような「精神論マッチョ」は、話の中に精神論を持ち込み、問題の原因を「個人」に帰する傾向が強いために、問題の構造を見えにくくしている。

「構造改革マッチョ」にとっては、つねに制度設計という「構造」が問題なのであって、「個人」は問題ではないのだ。


関連エントリ:
規制を緩和し、「構造」を変える
http://mojix.org/2009/02/12/kiseikanwa_naiju
「自己責任だ」と責められている人は、むしろ「犠牲者」だ
http://mojix.org/2009/02/09/jikosekinin_giseisha