「下請け保護」は下請けの仕事を減らす 「弱者を救済するために、強者を規制する」という「間違った正義」
asahi.com - 下請け保護強化、公取委に要請へ 金融相(2009年10月16日14時5分)
http://www.asahi.com/politics/update/1016/TKY200910160263.html
<亀井静香金融相は16日の閣議後の記者会見で、中小零細の下請け企業の保護策強化を、公正取引委員会に要請することを明らかにした。検討中の借金の返済猶予を促す「貸し渋り・貸しはがし対策法案」だけでは経営改善につながらないとして、閣僚が公取委の幹部に直接会って要請する異例の対応に踏み切る>。
<亀井氏は、発注元の大企業が優越的な地位を利用して弱い立場の中小零細企業に値引きを強要していると指摘。「仕事があっても、もうからない状況に追い込まれている」と述べた。公取委に「下請法」などに基づいて、大企業への指導を強めるよう求める考えだ>。
<亀井氏は公取委について「談合には鼻をくんくん鳴らして(取り締まりに)いくのに、下請けがいじめられているのは見て見ぬふりをしている」と批判。「(みんなで話し合ってふるさとづくりをする)いい談合は聖徳太子以来の日本の伝統」と持論を展開した>。
またしても亀井金融相、今度は「下請け保護」である。その内容もまた、モラトリアム案と同じく「勧善懲悪」思考であり、「弱者を救済するために、強者を規制する」というものだ。
市場取引とは、たとえ強者と弱者の取引であっても、互いに合意して取引するものだ。ほんとうに強者が弱者を「いじめ」ていて、弱者にメリットがないなら、弱者は取引しない。弱者はみずから取引することを選んでいるのであり、そこに「強制」はありえない。強制できるのは政府だけだ。
市場取引とは、一方が他方から強奪するプロセスではなく、互いに納得して、商品やサービスとお金を交換するプロセスである。このプロセスにおいては、どちらが強者か、どちらが弱者かということは関係ない。その取引に両者が合意すれば取引が成立するし、合意できなければ取引が成立しない。それだけだ。
この市場取引に国が介入して、「弱者を救済するために、強者を規制する」ようなことをすれば、強者にとって取引のコストやリスクが上昇するので、強者は取引を減らす。これが、解雇規制によって正社員の雇用が減ってしまう原因であり、借地借家法によって賃貸住宅の供給が減ったり、その住宅の質が下がる理由である。
亀井金融相のモラトリアム案、そしてこの「下請け保護」も、すべて同じパターンである。モラトリアム案とは、銀行と中小企業の金融取引への介入であり、この「下請け保護」も、大企業と中小企業の取引への介入である。モラトリアムは銀行にとって取引リスクを上昇させるので、取引を減らしてしまう。「下請け保護」は大企業にとって取引リスクを上昇させるので、取引を減らしてしまう(例えば、下請け仕事が海外に流出する)。
例えば、貧乏人は店から商品をタダで持っていっていい、ということになったらどうなるだろうか。貧乏人は喜ぶかもしれないが、誰も店をやらなくなるだろう。すると、それまで普通に店を利用していた人も困るし、店がなくなれば貧乏人も困る。「弱者を救済するために、強者を規制する」という形の市場介入、「民間の強者に泣いてもらう」という政策は、極端に言えばこれに近い。こんなことをしても誰も救われず、全員が不幸になるだけだ。それは自由な取引で成り立つ市場経済を破壊し、あらゆる資源配分を国が指図する計画経済に近づくものだ。
弱者の救済は、市場の外に作ったセーフティネットによっておこなうべきであって、国は市場取引に介入すべきでない。さらに、セーフティネットによる救済の単位は個人に限定すべきであって、企業を救済していてはキリがない。その意味では、亀井金融相のモラトリアム案、そしてこの「下請け保護」は、いずれも個人ではなく企業間の取引に国が割って入り、強い側の企業を規制して弱い側の企業を救済するというものであり、まさに最悪のパターンである。最も効率良く市場取引を減らし、最も効率良く市場を破壊する規制と言えるだろう。
さらにこの種の規制は、民間の市場を破壊するだけでなく、規制を機能させ、維持するためのコストがかかるので、いっそう税金が使われる。経済を弱らせて、さらに増税になるわけだ。
特にこの「下請け保護」がバカバカしいのは、そもそも多重下請け構造を発生させている大きな要因が解雇規制だという点だ。日本の大企業がたくさん子会社や系列会社を作ったり、仕事を下請けに出すのは、正社員の解雇・減給が困難だという制約から来ている面が小さくない。要するに、日本の大企業にとっての子会社・系列会社・下請け先というのは、いわば「コストやリスクのシワ寄せ先として運命づけられている存在」なのだ。それは非正規雇用もまったく同じである。
解雇規制という介入によって、多重下請け構造という「身分制度」を作り上げておいて、さらに「下請けいじめ」をしないよう大企業を規制する。これはちょうど、解雇規制によって企業の人材採用を制約しておいて、ポスドク人材の採用に補助金をつける、といった愚劣な政策と同じである。まさに「マッチポンプ」であって、そもそも政府の規制が生んだ問題を、さらに政府の規制で解決しようというのだ。まさにジンバブエ路線であり、規制の積み重ねで経済はどんどん弱体化していく。
「弱者を救済するために、強者を規制する」という考え方は、「間違った正義」である。弱者を救いたい、という気持ち自体は「正義」だとしても、「強者を規制する」という方法が間違っているために、市場を縮小してしまい、弱者を余計苦しめてしまう。市場を縮小させて全体に不利益を与え、本来意図していた「弱者を救う」ことすら実現できず、むしろ裏目に出るのだから、「間違った正義」と言うほかはない。
弱者を救うための仕組みとコストは、セーフティネットに集中させるべきだ。いっぽう市場はそこから富が生まれる源泉なのだから、できるだけ自由にしたほうがいい。強者を制約しても、富の生産が減るだけで、弱者が救われるわけではない。むしろ、富の総量が減れば、弱者はいちばん先に痛みを負うのだ。
いわば、市場は「攻め」であり、セーフティネットは「守り」だ。セーフティネットという「守り」のコストを、市場の「攻め」で稼ぐ必要がある。「攻め」である富の創出はゼロサムの奪い合いではないので、富はできるだけ多く生み出したほうがいい。ここで強者を制約するのは、優秀な選手の足を引っ張るようなもので、生み出される富の量を減らすだけだ。すると、「守り」のコストも払えなくなる。
「規制緩和は、企業や金持ち優遇だ」といった意見をしばしば聞く。「解雇規制の撤廃は、経営者を利するだけだ」といった意見もその1つである。こういった発想はまさに、「弱者を救済するために、強者を規制する」という考え方と根が同じである。こういう考え方の人、規制強化論者に、「強者を規制しても経済が縮小するだけで、弱者は救われない」ということをわかってもらうには、どうすればよいのだろうか。こういう考え方を絶滅させることは無理だし、絶滅させるべきとも思わないが、国の首相や金融相がこういう考え方を脱却できないというのは、大問題だと思う。
規制強化論者というのは大抵、富の創出や経済成長、原資がどこから来るのかをあまり考えていない。「稼ぐ」ことを考えず、「使う」ことしか考えないのだ。もし一般人が、「稼ぐ」ことを考えず、「使う」ことしか考えなければ、せいぜい当人が身を滅ぼすだけで済む。しかし国の首相や金融相が、「稼ぐ」ことを考えず、「使う」ことしか考えないのであれば、国が滅びかねない。
関連エントリ:
亀井金融相のメチャクチャな経団連批判 「ワルモノを懲らしめる」という「勧善懲悪」思考では、経済問題は解決しない
http://mojix.org/2009/10/08/kamei_keidanren
「法学的思考」と「経済学的思考」
http://mojix.org/2009/10/06/hougaku_keizaigaku
解雇規制は労働者の利益になっているのか?
http://mojix.org/2009/09/24/kaikokisei_rieki
日本の賃貸住宅ではなぜ保証人を要求されるのか 「保護」がむしろ「弱者」を生む日本の構造
http://mojix.org/2009/04/02/chintai_hoshounin
http://www.asahi.com/politics/update/1016/TKY200910160263.html
<亀井静香金融相は16日の閣議後の記者会見で、中小零細の下請け企業の保護策強化を、公正取引委員会に要請することを明らかにした。検討中の借金の返済猶予を促す「貸し渋り・貸しはがし対策法案」だけでは経営改善につながらないとして、閣僚が公取委の幹部に直接会って要請する異例の対応に踏み切る>。
<亀井氏は、発注元の大企業が優越的な地位を利用して弱い立場の中小零細企業に値引きを強要していると指摘。「仕事があっても、もうからない状況に追い込まれている」と述べた。公取委に「下請法」などに基づいて、大企業への指導を強めるよう求める考えだ>。
<亀井氏は公取委について「談合には鼻をくんくん鳴らして(取り締まりに)いくのに、下請けがいじめられているのは見て見ぬふりをしている」と批判。「(みんなで話し合ってふるさとづくりをする)いい談合は聖徳太子以来の日本の伝統」と持論を展開した>。
またしても亀井金融相、今度は「下請け保護」である。その内容もまた、モラトリアム案と同じく「勧善懲悪」思考であり、「弱者を救済するために、強者を規制する」というものだ。
市場取引とは、たとえ強者と弱者の取引であっても、互いに合意して取引するものだ。ほんとうに強者が弱者を「いじめ」ていて、弱者にメリットがないなら、弱者は取引しない。弱者はみずから取引することを選んでいるのであり、そこに「強制」はありえない。強制できるのは政府だけだ。
市場取引とは、一方が他方から強奪するプロセスではなく、互いに納得して、商品やサービスとお金を交換するプロセスである。このプロセスにおいては、どちらが強者か、どちらが弱者かということは関係ない。その取引に両者が合意すれば取引が成立するし、合意できなければ取引が成立しない。それだけだ。
この市場取引に国が介入して、「弱者を救済するために、強者を規制する」ようなことをすれば、強者にとって取引のコストやリスクが上昇するので、強者は取引を減らす。これが、解雇規制によって正社員の雇用が減ってしまう原因であり、借地借家法によって賃貸住宅の供給が減ったり、その住宅の質が下がる理由である。
亀井金融相のモラトリアム案、そしてこの「下請け保護」も、すべて同じパターンである。モラトリアム案とは、銀行と中小企業の金融取引への介入であり、この「下請け保護」も、大企業と中小企業の取引への介入である。モラトリアムは銀行にとって取引リスクを上昇させるので、取引を減らしてしまう。「下請け保護」は大企業にとって取引リスクを上昇させるので、取引を減らしてしまう(例えば、下請け仕事が海外に流出する)。
例えば、貧乏人は店から商品をタダで持っていっていい、ということになったらどうなるだろうか。貧乏人は喜ぶかもしれないが、誰も店をやらなくなるだろう。すると、それまで普通に店を利用していた人も困るし、店がなくなれば貧乏人も困る。「弱者を救済するために、強者を規制する」という形の市場介入、「民間の強者に泣いてもらう」という政策は、極端に言えばこれに近い。こんなことをしても誰も救われず、全員が不幸になるだけだ。それは自由な取引で成り立つ市場経済を破壊し、あらゆる資源配分を国が指図する計画経済に近づくものだ。
弱者の救済は、市場の外に作ったセーフティネットによっておこなうべきであって、国は市場取引に介入すべきでない。さらに、セーフティネットによる救済の単位は個人に限定すべきであって、企業を救済していてはキリがない。その意味では、亀井金融相のモラトリアム案、そしてこの「下請け保護」は、いずれも個人ではなく企業間の取引に国が割って入り、強い側の企業を規制して弱い側の企業を救済するというものであり、まさに最悪のパターンである。最も効率良く市場取引を減らし、最も効率良く市場を破壊する規制と言えるだろう。
さらにこの種の規制は、民間の市場を破壊するだけでなく、規制を機能させ、維持するためのコストがかかるので、いっそう税金が使われる。経済を弱らせて、さらに増税になるわけだ。
特にこの「下請け保護」がバカバカしいのは、そもそも多重下請け構造を発生させている大きな要因が解雇規制だという点だ。日本の大企業がたくさん子会社や系列会社を作ったり、仕事を下請けに出すのは、正社員の解雇・減給が困難だという制約から来ている面が小さくない。要するに、日本の大企業にとっての子会社・系列会社・下請け先というのは、いわば「コストやリスクのシワ寄せ先として運命づけられている存在」なのだ。それは非正規雇用もまったく同じである。
解雇規制という介入によって、多重下請け構造という「身分制度」を作り上げておいて、さらに「下請けいじめ」をしないよう大企業を規制する。これはちょうど、解雇規制によって企業の人材採用を制約しておいて、ポスドク人材の採用に補助金をつける、といった愚劣な政策と同じである。まさに「マッチポンプ」であって、そもそも政府の規制が生んだ問題を、さらに政府の規制で解決しようというのだ。まさにジンバブエ路線であり、規制の積み重ねで経済はどんどん弱体化していく。
「弱者を救済するために、強者を規制する」という考え方は、「間違った正義」である。弱者を救いたい、という気持ち自体は「正義」だとしても、「強者を規制する」という方法が間違っているために、市場を縮小してしまい、弱者を余計苦しめてしまう。市場を縮小させて全体に不利益を与え、本来意図していた「弱者を救う」ことすら実現できず、むしろ裏目に出るのだから、「間違った正義」と言うほかはない。
弱者を救うための仕組みとコストは、セーフティネットに集中させるべきだ。いっぽう市場はそこから富が生まれる源泉なのだから、できるだけ自由にしたほうがいい。強者を制約しても、富の生産が減るだけで、弱者が救われるわけではない。むしろ、富の総量が減れば、弱者はいちばん先に痛みを負うのだ。
いわば、市場は「攻め」であり、セーフティネットは「守り」だ。セーフティネットという「守り」のコストを、市場の「攻め」で稼ぐ必要がある。「攻め」である富の創出はゼロサムの奪い合いではないので、富はできるだけ多く生み出したほうがいい。ここで強者を制約するのは、優秀な選手の足を引っ張るようなもので、生み出される富の量を減らすだけだ。すると、「守り」のコストも払えなくなる。
「規制緩和は、企業や金持ち優遇だ」といった意見をしばしば聞く。「解雇規制の撤廃は、経営者を利するだけだ」といった意見もその1つである。こういった発想はまさに、「弱者を救済するために、強者を規制する」という考え方と根が同じである。こういう考え方の人、規制強化論者に、「強者を規制しても経済が縮小するだけで、弱者は救われない」ということをわかってもらうには、どうすればよいのだろうか。こういう考え方を絶滅させることは無理だし、絶滅させるべきとも思わないが、国の首相や金融相がこういう考え方を脱却できないというのは、大問題だと思う。
規制強化論者というのは大抵、富の創出や経済成長、原資がどこから来るのかをあまり考えていない。「稼ぐ」ことを考えず、「使う」ことしか考えないのだ。もし一般人が、「稼ぐ」ことを考えず、「使う」ことしか考えなければ、せいぜい当人が身を滅ぼすだけで済む。しかし国の首相や金融相が、「稼ぐ」ことを考えず、「使う」ことしか考えないのであれば、国が滅びかねない。
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