2011.04.02
原発問題とタバコ問題は似ている 原発にも「分煙」を採りいれて、日本を分割してはどうか
原発問題とタバコ問題は、似ているところがある。

もちろん、放射能とタバコの煙では、危険性という点では比較にならないだろう。また、原発は社会に必要な電気を生み出すもので、タバコは単なる嗜好品だといった違いもある。しかし、構図としては似ていると思うのだ。

まずタバコ問題では、対立の構図は大体このようなものだろう。

タバコ賛成派:公共の場所でもタバコを吸いたい。これくらい許してほしい。
タバコ反対派:タバコの煙や臭いが迷惑。許されるわけがない。

タバコ問題の場合、タバコを吸いたいのは本人だけで、原発のように電力を生み出したりしない。本人の嗜好以外に社会的なメリットがないので、タバコの煙や臭いをまき散らして、他人に迷惑をかけたり、健康被害を生み出すことが正当化できない。よって、「公共の空間では禁煙」というのが世界的な流れになっているし、タバコ大国の日本ですら、最近は禁煙や分煙のところが増えてきている。

いっぽう原発問題では、対立の構図は大体こうなっている。

原発賛成派:日本の電力需要をまかなうには原発が必要。原発は正しく扱えば危険ではない。
原発反対派:原発は危険であり不要。電力需要は、再生可能エネルギーの技術開発や、需要を抑えることで対応できる。

原発の場合、危険性という点ではタバコとは比較にならないが、反対派が反対している理由が「迷惑だ」という点では近い。

しかし原発の場合、タバコと違って、賛成派も放射線を浴びたり、放射性物質を吸ったりしたいわけではない。原発問題の場合、賛成派は原発の危険性やコストの評価において、反対派と見方が違っている。それが根拠になって、原発という発電方法を他の方法より高く評価する、というのが賛成派のスタンスだろう。

このように立場の対立があるとき、解決方法は主に2つあると思う。

1)原発は危険なのか安全なのかを、客観的に明らかにする。
2)立場によってグループを切り離し、「棲(す)み分け」する。

原発問題の場合、現状では1)のアプローチにばかり焦点があたっており、「原発は危険だ」「いや安全だ」という議論が繰り返されているように感じる。

もちろん、こういう客観的・原理的な議論は有益であり、必要だろう。しかし、こういう原理的な話は、どこまで行っても終わりがないところがある。

「とにかく原発はイヤだ」と思っている人に、いくら客観的なデータを積み重ねてもムダなのだ。そして、個人が「とにかく原発はイヤだ」と判断することには何の問題もないし、その判断が尊重されるべきだろう。いっぽう、「客観的」と称するものも、しばしばアテにならない。

よって、1)の原理的なアプローチだけでなく、2)の「棲み分け」アプローチも必要なのだ。これによって、賛成派と反対派のどちらが正しいのかを客観的に決めることなく、それぞれの判断を尊重することができる。

この「棲み分け」アプローチは、タバコ問題で言えば「分煙」の考え方に近いかもしれない。タバコを吸っていいのかダメなのか、一律に決めるのではなく、仕切りによってグループを分けて、それぞれの意向を尊重する。

原発にも「分煙」の考え方を採りいれて、原発の賛成派と反対派で、日本を分割してはどうだろうか。

原発のある「州」は、原発事故が起きないようしっかり対策しつつ、原発で作った電気を、原発のない「州」に対して売る。

いっぽう原発のない「州」は、放射能汚染の心配がない水や食物などを、原発のある「州」に対して売るのだ。

万が一、原発のある「州」で原発事故が起きて、原発のない「州」に迷惑をかけた場合は、原発のある「州」は、原発のない「州」に対して、膨大な賠償金を払う。

日本は「和」を重んじる文化なので、このようにグループを分けたり、対立を顕在化させるような仕組みは好まれないかもしれない。しかし、対立を顕在化させないということは、それぞれの意向を尊重せず、全体的な決定に対して「屈する」ことを強制することでもある。「個人」の意思や判断を犠牲にしているのだ。

グループを分けることは、「個人」の意思や判断をできるだけ尊重するということだけでなく、さまざまな「やり方」を同時に進める、ということも意味している。これは手法の多様性を増すので、リスク分散にもなるのだ。今回の原発事故では、大規模な計画停電によって、エネルギーを電気に依存しすぎることのリスクが浮き彫りになった。また首都圏の電力が、東京電力という一企業に全面的に依存していることも、あらためて浮き彫りにした。

さらに日本では、政治・経済の多くの機能が東京に一極集中しており、国の構造も中央集権体制になっている。東京に直下型の大地震が来る可能性は以前から指摘されているが、今回の東日本大地震を引き起こした地殻変動によって、その可能性はさらに大きく増したはずだ。

「和」の文化や、国を挙げての復興体制も必要だろう。しかし、このような「全員一丸となって」という方向は、どちらかといえば日本の得意なものであり、比較的自然にできそうに思う。むしろいまこそ、「棲み分け」アプローチによって「さまざまなやり方を許す」という方向、より具体的には、道州制や連邦制によって「日本を分割する」ような方向が、より必要ではないだろうか。このような方向は日本が苦手とするものであり、本質的な弱点なので、より抜本的な意識変革が必要だろう。しかしこれを克服すれば、日本は大きく脱皮できると思う。

どのみち、これまでの非効率なやり方を続ける余裕は、日本にはもう残っていないだろう。いつまでも結論の出ない全体的な議論を、ダラダラ、悠長にやりつづける余裕はもうないのだ。

「日本を分割する」とは、何よりも「権限を分割する」ことだ。これによって、各地方の意思決定が迅速になる。同時に、さまざまなやり方が並行して走るので、多様性が生まれ、それがリスク分散になる。この「多様性によるリスク分散」こそ、日本に最も欠けているものだろう。

原発への集中。電気への集中。東京電力への集中。東京への集中。中央政府への集中。こうした集中はすべて、競争と多様性を導入することで緩和できるし、それがリスク分散にもなる。「みんないっしょ」という集中アプローチの危険性に、日本はいまこそ気づくべきだ。

「みんないっしょ」は一見したところ効率的に見えるが、「個人」が押し殺されていて不満が溜まりやすく、個人の能力をじゅうぶん発揮できない。また多様性を欠いているので、進化論的に考えても、状況の変化に対応できず、いきなり全体が崩壊しやすい。「棲み分け」によって「さまざまなやり方を許す」ことこそ、長期的に持続し、生き残れる社会の「設計」である。


関連エントリ:
反原発派こそ、市場メカニズムを使え
http://mojix.org/2011/03/29/hangenpatsu-market
競争によるリスク分散
http://mojix.org/2011/03/22/kyousou-risk-bunsan
日本も連邦制にすればいいのでは
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