2010.08.04
日本も連邦制にすればいいのでは
先日、「木走日記」におもしろいエントリがあった。

木走日記 - 参議院は「一票の格差」是正を思い切って放棄してみてはいかが
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20100713/1278997198

<ネットの一部ではこの問題を「一票の格差問題」で語っている論説もあるようです、いわく鳥取と神奈川では票の重みが5倍違う、千葉氏が神奈川で得票した696,729票は一人区でなら十分当選圏である、現に高知県じゃ137,306票で当選している、と言った論であります>。

<私の持論なんですが、参議院にたいし優位性を認められている衆議院では「一票の格差」を徹底的に無くす「装置」を常設して、国民の一票の権利をできうるかぎり平等にしその権利を守るように制度化する、一方で参議院は「一票の格差」是正の追求をもう思い切って放棄して「地域の平等」を全面に唱うのです>。

そして、昨年の「「国民の平等」と「地域の平等」、どちらを優先すべきか」というエントリを引くかたちで、アメリカ合衆国上院との比較をおこなっている。

<日本の参議院に当たるアメリカ合衆国上院(United States Senate 元老院)は定数100名ですが、各州2名の定員が固定的に割り当てられています、もちろん各州の人口は無視されています>。

<「一票の格差」というものさしで計れば、人口60万に満たないアラスカ州と約4000万のカリフォルニア州では、70倍の格差が生じています>。

つまり、アメリカでも上院については、「国民の平等」というよりも「地域の平等」という基準で票が分配されているわけだ。

このエントリに対して、greenstoneさんという人が素晴らしいコメントをつけている。やや長いが、見事な内容なので全文引用する。

<この件について説明すると長くなるので簡単に書きたいと思いますが、管理人さんの問いかけの答えは、管理人さんの書かれたものの中にあります。
つまり何故米国では各州2名の代表が選ばれている理由は、国連が国ごとに一票の投票権を与えていることにあります。
日本は連邦制でないので、ご存じないことに不思議はないのですが、米国を始めとする連邦国家の多くは法体系について二元システムをとっています。連邦議会の権能は制約されており、原則として、各州相互間に関すること、国防、外交についてのみ立法権があります。現在は解釈によって広げられていますが、基本はそのようになっており、合衆国憲法にもそのように定められております。
したがって日本の民法、刑法にあたる法律は州議会および州裁判所によって定められており、これらの事項について、連邦議会は原則として法律を制定できません。
つまり日常の市民生活に関することについて連邦に制定権がないので、連邦議会に州ごとに代表者を出せるのです。
日本は明治に廃藩置県を行なった段階で中央集権となり、自治体には独自の裁判所はなく、地方議会は法律に反する条例は一切制定できず、一元的な統治システムをとっています。
そもそも日常感覚としても県境を越えると一票の価値が変わるほど、県境が意味を持たせられないでしょう。連邦国家でないとそうなるのです。
国連において各国が一票持っているのは各国が国内に別個の法システムを持っているからで、EUも同様です。つまり国民の生活に直接関係のあることについて国連で議決されることはないのです。
連邦制は、それを持たない国にはなかなか理解しにくいところだと思います>。

この「連邦制」こそ、日本が進むべき方向であり、かつ日本のさまざまな問題を解くカギではないだろうか。

仮に一票の格差がほぼ解消されたとしても、1億2千万人の国をどうするのか、中央集権体制で決めている限り、ほぼ永遠にうまくいかないのではないか。政治とは制度の「設計」だから、中央集権体制とは、その「設計」をひとつに決めなければならないということだ。1億2千万人という規模の国の「設計」をひとつに決めなければならないということ自体が、基本的な「設計」として誤っているように思う。

社会というものは複数の人間から成る以上、その複数の人間の全員が完全に合意することはありえない。しかし、その社会のサイズが小さければ小さいほど、そこに参加する人間の数が少ないので、その社会における決定は、各個人の希望からの乖離が少なくなる。

よって、1億2千万人の国をどうするのか、その「設計」を中央集権体制によってひとつに決めてしまうよりも、その国をできるだけたくさんの社会に分けて、その社会をどうするかを自分たちで決められるように「分権」したほうが、うまくいくのではないか。

自由主義か社会主義か、年金をどうするか、消費税は何%がいいのか、といったことは、いくら一票の格差をなくして、国民的議論を尽くして決めたところで、全員が納得するなどということは到底ありえない。しかし、例えば各都道府県が「国」に準じた権限を持っていて、年金や税制をそれぞれ自由に決められるようになっていれば、どうだろうか。自分の「一票」の比重が高くなり、その地域の住民の意思が反映された制度が作られるだろう。そして、もし自分の地域の制度に納得できなければ、他の地域に移ることができる。つまり、地域を選ぶことによって、「制度を選ぶ」ことができるようになるのだ。47の制度から、もっとも自分の希望に近いものを選べるのなら、中央集権体制で全員ひとつの制度に固定されるよりも満足度が高くなるだろう。

一票の格差の問題にしても、米軍基地や原発など迷惑施設の問題にしても、日本が中央集権体制であり、ヒトもカネも東京に一極集中しているという「国の構造」と切り離せないように思う。地方へのバラマキは、一種の「迷惑料」なのだ。一票の格差がなかなか是正されず、地方や農村へ「傾斜配分」されているのも、この構造を抜本的に解消することが困難であることを政治家が理解しているからだろう。この構造自体が一種の「タブー」なので、そこに触れることなく表面的な「きれいごと」がずっと繰り返されるわけだ。

もし日本が連邦制になれば、迷惑施設の問題も、国の外交のようなものになり、利害調整をともなった「取引」になるのではないか。迷惑料とともに迷惑施設を受け入れるということが、排出枠取引のように「市場に内部化」されて、タブーでなくなる。リスクを引きうけてカネをもらうのかどうか、それぞれの「国」が選べるので、その価格もオークションのように市場的に決まっていくだろう。そして、どうしても迷惑施設がイヤな人は、貧乏で不便かもしれないが安全な「国」へ移るという選択ができるのだ。

システムが長く生き残るには、「多様性」が欠かせない。中央集権体制の日本は、社会レベルでの「多様性」を欠いているので、個々の人間という個体レベルでの「多様性」をも失わせてしまう。この中央集中型の設計をやめて、分散型の設計に切り替えれば、社会レベルでも「多様性」が生じるし、複数の社会から選択できる自由が生じることで、個人レベルの「多様性」も拡大するだろう。


関連:
ウィキペディア - 連邦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E9%82%A6
ウィキペディア - 日本の道州制論議
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5..

関連エントリ:
北海道独立論その2: 1999年にイギリスから「独立」したスコットランドに学ぶ
http://mojix.org/2010/03/05/hokkaido_scotland
田村耕太郎参議院議員「日本を30のシンガポールに分ける」
http://mojix.org/2009/10/01/30_singapore_in_japan
自由とは「多様性を許容する設計」である
http://mojix.org/2009/11/23/jiyuu_tayousei
可能な社会を想像する
http://mojix.org/2008/11/22/imagine_possible_society
さまざまな「社会設計」の自治体が競争するメタ社会
http://mojix.org/2008/11/03/meta_society