2012.12.04
「経済合理性+国際協調」という選択肢
ニューズウィーク日本版 : プリンストン発 新潮流アメリカ - 日本の対立軸にはどうして「経済合理性+国際協調」という選択肢がないのか?(2012年12月03日(月)13時05分)
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/12/post-505.php

<今回の衆院選は、多数の政党が登場しています。勿論、乱立だとか混乱だという形容は当たっているのですが、少なくとも選択肢は増えたというメリットはありそうです。ところが、どうしたものか21世紀の現在において、最も重要で現実的だと思われる選択肢が見事に欠落しているのも事実です>。

<それは「経済合理性と国際協調を同時に重視する」という立場です>。

<少なくとも社会主義の信奉者とか既得権益代表ではなく、経済合理性を理解しているグループ、少なくとも日本の経済全体が成長して行かなくてはならないということを理解しているグループが、どうして軍事外交に関しては、21世紀の世界では全く通用しない閉鎖的な孤立主義イデオロギーを抱え込んでいるのでしょうか?>

いつも切り口が鋭い冷泉彰彦氏のコラムだが、今回は衆院選というホットなテーマなので、とりわけ直接的で、鋭い内容である。

ここで冷泉氏が「経済合理性+国際協調」と書いている立場は、「国際協調」のところを「リベラル」に変えて、「経済合理性+リベラル」とすれば、ちょうどリバタリアニズムの立場になる。リバタリアニズムの立場は、この「ノーラン・チャート」を見てもらうとわかりやすい。



冷泉氏が「経済合理性」と書いているもの(その反対は「社会主義の信奉者とか既得権益代表」)が、この図ではヨコ軸の「経済的自由」(その反対は「社会主義」)になる。

いっぽう、冷泉氏が「国際協調」(その反対は「閉鎖的な孤立主義イデオロギー」)と書いているものが、この図ではタテ軸の「精神的自由」(その反対は「国家主義」)になる。「精神的自由」は、思想や言論、行動などの自由を指すもので、いわゆる「リベラル」である。「国際協調」は外交のスタンスだが、これは「国家主義」に対立するので、「リベラル」と親和的なものだろう。

日本の対立軸には「経済合理性+国際協調」という選択肢がない、という冷泉氏の見方は、「国際協調」のところを「リベラル」に変えれば、日本にはリバタリアニズムの政党がない、というのに近い。

冷泉氏は各党について、次のように書いている。

<安倍自民党は軍事外交では親米で、ビジネスにはフレンドリーなのかもしれませんが、靖国参拝とか国防軍といった右派イデオロギーがどうしてもセット定食で付いてくるわけです。これでは、自由世界での友人を作るといっても大きな限界があります>。

<野田民主党は、その点ではやや現実に寄っていますが、郵政逆改革とか一部のバラマキ政策など、どう考えても経済合理性を理解していない政策が混じっています>。

<維新は、公務員改革や教育におけるパフォーマンス追求、つまり厳しい21世紀の国際社会の中で競争力を持つ格差に負けない子供を育てようという原点は素晴らしいと思うのですが、組合との力関係のゲームの中で右派的なイデオロギーを求心力に使っているうちに、国際協調や経済合理性の感覚が「抜本的に」欠落したグループとの合同に至っています>。

<みんなの党に関しては、小さな政府論と経済合理性への理解は相当にあり、それが都市票の一部に評価されたわけですが、軍事外交においては最初から右派カルチャーのカテゴリから出ることはありませんでした>。

<その他のグループについては、反グローバリズム、反経済合理性というまるでヨーロッパなどの「自分さがし」の若者や、ギリシャの左翼、イスラム圏の原理主義運動と同じような、21世紀の世界の現実へ向き合うことを拒否した内向き志向が核にあるわけです。いや、それよりももっとタチの悪い、既得権益の利害代表という側面もそれぞれに持ち合わせているわけです>。

さすが冷泉氏、かなりズバズバ書いている。各党の関係者・支持者から、怒りの声が聞こえてきそうだ。

私は冷泉氏の見方にはおおむね賛同するが、みんなの党についての<軍事外交においては最初から右派カルチャーのカテゴリから出ることはありませんでした>という評価は、なぜなのかわからなかった。しかし冷泉氏もおそらく、安倍自民党や維新に比べれば、この点ではみんなの党がマシだと考えているのではないだろうか(そういう書き方になっていると私は感じる)。

「経済合理性+国際協調」にみんなの党が入るか、入らないかという点を除けば、私もおおむね、冷泉氏が書いている通りだと思う。日本では「経済合理性」と「国際協調」がなかなか両立されず、要するに「右翼」か「左翼」のどちらかになってしまいやすいわけだ。

冷泉氏は後半で、なぜ日本がそうなってしまったかの分析を試みている。そのなかに、このような部分がある。

<もう1つは、日本の国際協調主義はどちらかと言えば「左派の縄張り」だったということがあります。環境であるとか、反戦平和であるというジャンルの話が好きで、市場経済や自由競争といったものには、直感的な抵抗を示しつつ、言論界や学界では多数派的な権力を行使してきたグループがあるわけです。そのために、これに反対しようとすると、自動的に「経済合理性+孤立主義」になってしまうという対立のメカニズムは、それこそ大阪の維新ではありませんが、今でもあるわけです>。

これはわかる感じがする。戦後の日本は、大きな経済発展を遂げたにもかかわらず、言論界や学界では「左派」が強くて、市場経済や自由競争はむしろ嫌われてきた。つまり、言論やアカデミズムと、実業・産業のあいだに大きな断絶ができてしまった。政治は良くも悪くも実業・産業と結びつくが、論壇やアカデミズムのオピニオンリーダーが概して左寄りなので、一般人もそれに影響されて左寄りになった(関連:「内田樹「座標軸をなくした日本社会には、一本筋の通った左翼の存在が必要」」)。これで、一般人は市場経済や自由競争を嫌うようになり、政治家や経営者を「ワルモノ」と見なして敵視しやすくなった。私は戦後の日本をこのように見ているので、冷泉氏の分析には共感できる。

政治家は国民の代表であり、国民が選ぶのだから、政治家のレベルは国民のレベルをあらわしている。日本の政党が「経済合理性」と「国際協調」をなかなか両立できないのは、結局のところ、国民自身が「経済合理性」と「国際協調」を両立できていないからだろう。それでも、ずっと自民党政権だった頃に比べれば、日本の政治は大きく前進しているし、日本人の「政治観」もひろがってきたように思う。


関連エントリ:
選択肢が増えたのは、日本の政治がよくなってきた証拠
http://mojix.org/2012/12/01/nihon-seiji
右翼でも左翼でもない
http://mojix.org/2012/11/24/uyoku-sayoku
右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念ではなく、独立概念である
http://mojix.org/2010/10/14/left-and-right