2013.01.21
いまの国語の授業は、体育でプロスポーツの映像を鑑賞するようなものだ
あらきけいすけの雑記帳 - 大学入試は学力を計るものではないことを改めて感じる(2013-01-19)
http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20130119/p1

<ひさびさに入試国語で小林秀雄を見た>。

<と言っても試験監督をしたときくらいしか、国語の入試問題なんか見ることもないから、出題頻度なんか知らない>。

<刀の鍔(つば)の話である。いかにも小林らしい「目利き自慢」のエッセイである。当然のことながら、歴史的考証をスノッブに侮蔑しつつ、目の前の鍔の鑑賞をもったいぶって書き散らしている。(中略)主題があっち行ったりこっち行ったり、いかに情趣の理解が深かろうとも、文章構成としては好き放題の感想を書き散らしているだけの駄文である。こんな文章は年の行ったジジイが日曜の朝にモオツアルトのレコオドでも聞きながら暇つぶしに読むのが似つかわしい>。

<こんな文書が自分の目の前で18歳前後の若者を選別する道具に使われるのを目の当たりにして、日本が本当に「技術立国」を目指した教育をする気が無いこと、所詮、大学受験にチューニングされた勉強の総決算の一つとして「センター試験」が位置づけられていることがひしひしと感じられて、暗澹たる気持ちになった>。

センター試験の国語に、小林秀雄が出たようだ。ちらっと見てみたら、1問目に出ていて、しかもかなり長い。センター試験の国語の問題って、こんなに長かったっけ?

<こんな文章は年の行ったジジイが日曜の朝にモオツアルトのレコオドでも聞きながら暇つぶしに読むのが似つかわしい>かどうかはともかく、これで国語力を調べるというのは、たしかにちょっとズレている気はする。

そもそも入試以前に、学校の国語の授業で、こういう文学的な文章ばかり読ませているのがおかしいように思う。その意味では、この入試問題は、いまの国語の授業には合っているのかもしれない。

日本における国語は日本語なんだから、国語の授業は、できるだけ日本語力を高めるような内容が望ましいはずだ。しかし、国語の授業では、文学作品ばかり読まされる。これでは、あまり日本語力はつかないだろう。

もし体育の授業で、実際に身体を動かさず、プロスポーツの試合を映像で鑑賞してばかりいたら、どうなるだろうか。プロスポーツにはちょっと詳しくなるかもしれないが、身体はぜんぜん鍛えられない。いまの国語の授業というのは、まさにそんな感じだ。

どんな分野でも、うまい人のやり方を見ることは、学習には欠かせないだろう。しかしそれも、「自分で実際にやってみる」ことがまず基本である。自分でやってみて、その上でこそ、うまい人のやり方が参考になるし、それが深く理解できる。

なぜ日本の学校では文章の書き方を教えないのかという話は、以前も書いたことがある。

自己表現にも技術が必要
http://mojix.org/2011/07/11/jikohyougen

<なぜ日本の学校では、文章の書き方や絵の描き方を教えないのか。その理由はおそらく、文章や絵というものが「自己表現」に属すると考えられているからではないだろうか>。

<「自己表現」に属するものだから、それは「個性」が生み出すもので、「方法」や「技術」とはなじまない、と考えられているのだろう。「個性」が一種の聖域になっていて、教育はそこに踏み込めないのだ>。

文章の書き方を教えはじめると、完全に客観的な「正解」というものはなくなる。これは、指導・評価する先生の側にもいっそうの力量が求められるし、評価される生徒とその保護者の側にも、それを納得して受け入れる度量が求められる。これが、「主観恐怖症」で「正解主義」の日本ではむずかしいのだろう。

小林秀雄のような文学的な文章であっても、センター試験では、客観的な「正解」が出るような問題になっている。もとの素材である文章は文学的でも、それが入試問題に加工されて、マルバツという「正解主義」に収まっているのだ。これがなんとも逆説的で、皮肉だと思う。

冒頭のあらきけいすけ氏の批判は、小林秀雄のような文学的な文章が、入試国語に採用されて、若者を選別するのに使われるのが許しがたい、というものだろう。これは私も理解できる。しかし、では小林秀雄のように文学的ではない、もう少し論理的な文章が題材であれば、問題は解消するのだろうか。

題材が文学的であっても論理的であっても、それをひたすら読むだけで、みずから書く訓練をしないのでは、日本語力は鍛えられないだろう。日本語力を鍛えるには、国語も体育のように、実践を中心にすべきではないだろうか。そのためには、やはり「正解主義」を捨てるしかない。

小林秀雄の文章を使った入試問題を解くよりも、小林秀雄の文章そのものを読むほうが、日本語力の訓練になるだろう。そして、小林秀雄の文章には、「正解」などないのだ。

安部公房はかつて、インタビューでこのように語っていた。

<終局的に意味に到達するのは
 間違いですね
 これは日本の国語教育の欠陥だと思う
 ぼくのもなぜか教科書に出てるんですよ
 見ていったら
 「大意を述べよ」と書いてある
 あれ ぼくだって答えられませんね
 ひと言で大意が述べられるくらいなら書かないですよ>

安部公房や小林秀雄のような文学を、国語教育で「正解主義」に押し込めるのは、二重に間違っているのだ。まず、国語教育の「正解主義」自体が間違っている。さらに、安部公房の言うとおり、文学というのは「正解主義」からいちばん遠いものなのだ。

つまり、国語教育の題材が文学に傾斜していること自体は、本質的な間違いではないと思う。それを「正解主義」に押し込めていることが間違いなのだ。文学を「正解主義」に押し込めることなく、ダイレクトに伝えることができれば、それはむしろ日本語力を高めると思う。

安部公房や小林秀雄を扱った入試問題を解いても、あまり日本語力はつかない。むしろ、安部公房や小林秀雄の文章そのものを読むべきだ。そして、おもしろいと思ったところや、納得できないと思ったところを、自分のブログなどで書いて、発表する。あるいは、安部公房や小林秀雄を友達といっしょに読んで、議論する。友達でなく、先生に質問するのでもいい。こうして実践、アウトプットすることによってこそ、日本語力は鍛えられていく。これこそ、ほんらいの「国語」ではないだろうか。


関連:
ウィキペディア - 小林秀雄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F..

関連エントリ:
日本を覆う「正解主義」という宗教みたいなもの
http://mojix.org/2012/12/28/seikai-shugi
自己表現にも技術が必要
http://mojix.org/2011/07/11/jikohyougen
「主観恐怖症」の日本
http://mojix.org/2009/10/11/shukan_kyoufu