2013.02.13
国語には、文章を「直す」訓練がいいのでは
先日、「いまの国語の授業は、体育でプロスポーツの映像を鑑賞するようなものだ」というエントリを書いた。国語も体育と同じように実践型にして、アウトプット中心にすべきだ、といった内容だった。

とはいえ、国語の授業を実践型・アウトプット中心でやるのは、正直たいへんである。アウトプット型といえば、テーマに沿って作文を書くとか、読書感想文を書く、といったものが思い浮かぶが、これはなかなか苦しい。生徒も苦しいが、先生の側も、きちんと評価したり、指導するのは相当むずかしい。もし、これを国語の授業で毎回やるとなれば、おそらく地獄だろう。

作文や読書感想文のように、自分のオリジナルな考えを書かせるというのは、かなり敷居が高い。そこまでしなくても、アウトプットの訓練はできる。プログラミングの世界で「リファクタリング」と呼ばれているものが、この訓練にちょうどいいように思う。「リファクタリング」とは、かんたんにいえば、文章の基本的な意味を変えずに、文章をわかりやすいものに「直す」ことだ。

以前「長い文を見ると、短くしたくなる」というエントリで、長くて古めかしい文章を、短くてわかりやすい文章に直す、というのをやったことがある。まず、元の文章はこうだ(スウィフト『ガリヴァ旅行記』(新潮文庫)の裏表紙より)。

<スウィフトの諷刺は、一点の感傷も交えない骨を刺す体のものであり、直接の対象は当時のイギリス社会の具体的事件や風俗であるが、それらは常に人間性一般への諷刺にまで高められており、そこに彼の作品の永遠性、普遍性がある>。

私はこれを、次のように直した。

<スウィフトの諷刺(ふうし)。それは一点の感傷もまじえない、骨を刺すようなものだ。それが直接の対象とするのは、当時のイギリス社会で起きた具体的な事件や、当時の風俗である。しかし、スウィフトの諷刺はつねに、人間性一般への諷刺にまで高められている。そこに彼の作品の永遠性、そして普遍性がある>。

一文を短くして、言いまわしをやわらかくするという「直し」で、いくらか読みやすくなっていると思う。これくらいの「直し」なら、ある程度の慣れや訓練は必要かもしれないが、「文才」は要らない。もっとも必要なものは、読む人にとって読みやすい文章にしよう、という「配慮」だろう。

国語の授業で、こういう「直し」をやるといいのではないか。題材の文章を叩き台にして、それを直していくだけなので、作文のように白紙に向かってウンウン悩む必要がない。直す過程で、題材の文章を何度も読むので、読解力も鍛えられる。「直し」とはいえ、文章を自分でアウトプットするので、ただ選択肢から「言いたいこと」を選ぶような問題を解くよりも、日本語を運用する能力がつくだろう。

元の題材が同じでも、生徒によって、どういうふうに「直す」かが違ってくる。誰の「直し」がいちばん読みやすいか、みんなで投票してもいいかもしれない。

作文や読書感想文だと、自分の意見や考えを書かせるので、「評価」がむずかしくなる。この「直し」であれば、あくまでも文章能力を磨くだけなので、競争したり、順位をつけたりしても、抵抗が少ないだろう。まさに体育のような感じで、文章を書くことを、スポーツのように楽しめると思う。


関連エントリ:
いまの国語の授業は、体育でプロスポーツの映像を鑑賞するようなものだ
http://mojix.org/2013/01/21/kokugo-taiiku
長い文を見ると、短くしたくなる
http://mojix.org/2011/03/17/nagai-bun
伝わる文章の書きかた 結果を先に、「いいわけ」は最後に
http://mojix.org/2011/02/26/tsutawaru-bunshou