2010.05.12
ポール・クルーグマン「ひどい賃金のひどい仕事でも無職よりマシ」
ポール・クルーグマン - 論説:「低賃金労働を称えて:ひどい賃金のひどい仕事でも無職よりマシ」
http://www.geocities.jp/left_over_junk/krugman_ds_smokey.html

<どうして一時間60セントでスニーカーを縫製してるインドネシア人の映像の方が,家族を養うためにわずかな土地を耕して一時間30セント相当を稼いでいるインドネシア人の映像よりも──あるいはゴミ山をあさっているフィリピン人の映像よりも──ずっと感情を逆撫でするんだろう?>

<その主な答えは,一種のえり好みにあるんだとぼくは思う. 餓えるほどの暮らしをしている農民とちがって,スニーカー工場の女性や子供たちは奴隷賃金でぼくらの利益のために働いている──このことにぼくらは後ろめたさを感じてしまう. だから国際労働基準を独善的に求める声が出てくるんだ:グローバリゼーション反対者たちは主張する,「労働者たちがまともな賃金を受け取ってまともな条件下で働くようにならないかぎり,我々は彼らのつくるスニーカーやシャツを買うべきではない」>

これはぜひとも、多くの人に読まれるべき内容だ。ポール・クルーグマンは、個人的にはそれほど好きな経済学者とは言えないが、ここで書かれている考え方にはすべて賛成する。

<こういう〔先進国の〕産業と途上国が競争してこれた理由は,雇用主に安い労働力を提供できるという一点にしかない. そのとりえを否定したら,産業の継続的な成長の前途を否定することになりかねず,それどころか達成された成長を後戻りさせることにすらなりかねない. 輸出志向の成長は,不当なこともあるけれど,こうした国々の労働者たちにとって巨大な恩恵となってきたわけで,その成長の足を引っぱることは彼らの利益に反する. 原則上ではよい仕事・実践上では仕事ゼロという政策は,ぼくらの良心こそ満足させるかもしれないけれど,受益者と目される人たちにとってはなにもいいことがない.>

<地に呪われた者を強いて富める者のために薪を切り水をくむ者,スニーカーを縫製する者にさせてはならない,と言う人がいるかもしれない.でも,対案は何? 海外援助で助けるべきなの?そうかもね──でも南イタリアのような地域の歴史的記録をみると,そういう援助は永続的な依存を助長してしまう傾向があるとわかる.どっちにしても,意味のある額の援助が実現される見込みはまったくない.彼ら自身の政府がさらに社会的公正をもたらすべきか?もちろんだ──でもどの政府もやらないだろう.少なくとも,ぼくらがやれと言ったからといってやるはずがない.低賃金にもとづく工業化への現実的な対案がないかぎり,これに反対するということは,悲惨なまでに貧しい人たちが向上する最善の機会を煎じ詰めれば美学的な基準のために否定したがっていることを意味する──つまり,労働者たちがわずかな賃金で西洋人にファッション・アイテムを提供するっていうのがあなたには気に入らないということを意味する.>

<ようするに,抗議の手紙の主たちには独善を言う資格なんてない.彼らは問題を考え抜いていない.何十億もの人々の希望が賭けられているときには,考え抜くことはたんにすぐれた知的営為であるだけじゃない.それは道義的な義務だ.>

ここで展開されている論旨は、特にクルーグマン独自の考えではない。経済学者であれば、たいていはこのように考えるだろう。

こういう経済学的な思考は、ときに「人でなし」と言われる。フェアトレード推進派の人や、グローバリゼーションの反対者がこれを読んだら、まさに「人でなし!」と叫びたくなるだろう。

経済学者も、別に低賃金がいいと思っているわけではないし、大企業の味方をしたいわけでもない。ここでのクルーグマンも、むしろ途上国の人の立場で考えているくらいだ。途上国の人の立場で考えれば、スニーカーを作ったりする仕事が先進国から来ることで、仕事の選択の幅がひろがっており、それをすることもしないことも自由なのであれば、効用は増している。「ひどい賃金のひどい仕事」であっても、本人がそれを望んでいるのであれば、その機会を奪ってしまうことは、むしろ道義に反するのだ。

ここでクルーグマンは、グローバリゼーション反対者に対して「独善を言う資格なんてない」「彼らは問題を考え抜いていない」と言っているが、これはグローバリゼーションという国際的分業だけでなく、最低賃金規制や派遣規制、解雇規制など、雇用・労働にまつわる多くの国内規制についてもあてはまる。政府の規制は多くの場合、「安い賃金は望ましくない」から「安い賃金を禁止する」、「派遣は望ましくない」から「派遣を禁止する」、「クビは望ましくない」から「クビを禁止する」といったものであり、「望ましくないこと」をなくしたいからそれを「禁止する」、という安直なものだ。

しかし、こうした規制によって、当事者の自由な選択の範囲が減らされ、当事者の効用(満足)はむしろ悪化してしまう。こういう政府の「きれいごと」は、当事者にとってはむしろ「大きなお世話」であり、まさに「パターナリズム」なのだ。

本人が望んでいるのであれば、それが反社会的な活動でない限り、政府はそれを禁止すべきでない。会社と労働者のような2者の契約においても、両者が合意しているのであれば、政府はそれを禁止すべきでない(「契約の自由」)。ここに政府が強制的に介入して、最低賃金や労働時間を規制するようなことは、もはや善や正義というよりも、「特定の規範の押しつけ」である。それはひとつの「べき論」に過ぎないのであって、その正しさは決して自明ではない。日本では、この「規範の押しつけ」を疑う人が驚くほど少ないように思う。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、「ヒトラーがドイツでやったことはすべて合法だったことを忘れるな」と言った。「合法」だから「善」とは限らないし、よって現状では「違法」であっても「悪」とは限らないのだ。

日本の規制の多くは、「国民は自分で判断できないので、国民の行動規範は政府が決めます」という政府のパターナリズムと、正義や弱者保護をタテマエにして自分の既得権益を死守したいだけの、実際は弱者でもなんでもない勢力による政治過程、その2つの融合によってできている。ネットの薬販売規制などはその典型だろう。こうした規制やパターナリズムは、決して善や正義そのものではないし、むしろ善や正義に反する場合が少なくない。規制やルールを正しいと思い込むのは、<問題を考え抜いていない>のだ。<問題を考え抜いていない>から、政府を利用する既得権益者に「カモられる」のである。『ドラゴン桜』の主人公が言っていた通りだ


関連エントリ:
「ブラック企業」を叩けば叩くほど、「ブラック企業」は増えるかもしれない
http://mojix.org/2010/04/30/why_black_company2
「ヒトラーがドイツでやったことはすべて合法だったことを忘れるな」(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)
http://mojix.org/2010/02/22/never_forget_that
「べき論」と規制
http://mojix.org/2010/02/19/bekiron_kisei
「法学的思考」と「経済学的思考」
http://mojix.org/2009/10/06/hougaku_keizaigaku