契約の成立には双方の合意が必要だが、契約の解除にも双方の合意が必要なのか?
昨日のエントリ「解雇規制は「離婚禁止」のようなものだ」に対して、はてなブックマークで、「離婚にも双方の合意が必要だ」といったコメントがあった。
離婚にも双方の合意が必要なのだから、解雇にも双方の合意が必要だ、と言いたいのだろうが、これには驚いた。
契約の成立には双方の合意が必要だが、契約の解除にも双方の合意が必要なのだろうか?
例えば、あなたがケータイの契約をしたとする。しかし、しばらく使ってみたら、その会社のサービスに満足できなくなり、解約を申し出たとする。このとき、解約には双方の合意が必要だったら、どうなるだろうか?ケータイ会社は当然、解約してほしくないので、解約に合意しないだろう。すると、あなたは一生そのケータイ会社との契約を解除できないことになる。カフカも真っ青の不条理社会だ。
「契約の成立には双方の合意が必要」とは、「双方の合意がなければ契約状態を継続できない」という意味である。「AかつB」の否定は、「非Aまたは非B」なのであって、「非Aかつ非B」ではない。「非Aまたは非B」、つまりどちらか一方でも契約に不満足であれば、契約状態は継続されず、解除されるのが普通だ。
解雇規制とは、会社と労働者の雇用契約を、会社の側からは解除させないという国の強行規定である。これは会社側にとっては、「いったん入ったら、出てこれない」ということ、「出口がふさがれている」ことを意味する。出口がふさがれているのに、入口から入ろうとするだろうか?
この「出口をふさいでいる」こと、つまり会社に解雇を禁止していることこそ、日本の会社が中途採用を渋る理由であり、雇用が出てこない理由である。この縛りをなくして解雇を自由にすれば、解雇ももちろん増えるが、それ以上に採用が増えて、労働市場で人が回りはじめる。人の移動が活発になれば、産業構造が世界の状況変化に対応しやすくなり、日本も競争力を維持できるだろう。
昨日のエントリでは、この「出口をふさいでいる」ことの意味を説明するために、「離婚禁止」というバカげた仮定を持ち出した。ところが、その離婚というものがたまたま、「契約の解除に双方の合意が必要」というレアケースだったために、冒頭のようなコメントを招いてしまった。
結婚というのは、他に比べられるものがあまりないほど、重い「契約」だろう。しかしそうであっても、「契約の解除(離婚)に双方の合意が必要」という現状の制度は、個人的には賛同できない。しかし、今回は結婚・離婚が主題ではないので、それについては論じない。
少なくとも言えるのは、日本では「就職」というものが、まさに「結婚」と同じくらい「重い」契約と捉えられているらしい、ということだろう。だから、「解雇」も「離婚」と同じくらい「重い」のであり、冒頭のコメントのように、「離婚にも双方の合意が必要なのだから、解雇にも双方の合意が必要だ」と考える人が出てくる。
この「重さ」こそが、企業が人を採用できない理由であり、これによって労働市場が硬直してしまい、さまざまな雇用問題を引き起こしている。解雇規制がなくならないのも、雇用契約を「一生の契り」であるかのように「重く」捉える見方が、まだまだ多いからだろう。
実際のところは、雇用契約とは「労働サービスの売買契約」にほかならない。半年や1年の労働サービスであれば気軽に買えるが、「一生分をまとめ買い」しなければならないため、なかなか買えないのだ。
企業が「一生分のまとめ買い」を強制されている理由は、本来は国の役割であるセーフティネットを、日本では政府が企業に押しつけているからだ。この規制がなければ、企業はもっと成長できて、雇用も出てくるのに、逆効果になってしまっている。解雇規制をなくし、「一生分のまとめ買い」を企業に強制することをやめれば、驚くほどたくさん雇用が出てくることだろう。
私は主に経営者の視点から見ているが、経営者のみに都合がいい話を書いているつもりはない。そもそも、「経営者のみに都合がいい話」「労働者のみに都合がいい話」といったものはないと私は考えており、制度や社会設計がダメな場合、そのコストは結局のところ社会全体で払わされると思っている。
その意味で、解雇規制は日本全体に不利益を与えている「ダメな制度」なのだ。よってこれをなくせば、ほとんど価値を生み出さずに高給を得ている一部の人を除き、労働者も含めたすべての人にとって、事態が良い方向に向かうだろう。なぜならば、解雇が自由になれば、労働者は生み出す価値や人材としての競争力によってのみ評価され、要するに「フェア」になるからだ。もちろん、経営者も神様ではないので、人材を正しく評価できるとは限らない。しかし、人材を正しく評価できるかどうかは経営の結果に反映されるはずなので、経営者・企業もまた、市場によって「フェア」に評価されるのだ。
そして、解雇規制がなくなれば転職が容易になるので、労働者は「この会社はダメだ」と思ったら、すぐに見切りをつけることができるようになる。つまり、経営者・企業は市場から評価されるだけでなく、労働者からも評価されることになるのだ。現状では、労働者の側から辞めることは制約されていないが、転職が難しいために、「辞めるぞ」という交渉カードを出すことは「命がけ」になってしまう。よって、残業や転勤、飲みニケーションといったものを拒否できず、生活が会社に侵食されてしまうのだ。これはまさに、企業に対して解雇を制約することで生じたコスト(機会費用)が、労働者に跳ね返ってきているのである。
企業の「自由」を奪っても、労働者の「自由」が増すわけではない。むしろ、労働者の「自由」も奪われてしまうのだ。「自由」とは、そういうものである。一方の「自由」を奪っても、他方がもっと「自由」になるわけではないのだ。「自由」とは、お互いが合意して、いっしょに生み出すものである。
関連エントリ:
労働者は「労働サービス」の提供者であり、その意味では「経営者」である
http://mojix.org/2010/03/18/worker_service_provider
日本の問題は、「人の流動性」が低すぎてノウハウが循環しないことにある
http://mojix.org/2010/03/08/knowhow_junkan
リチャード・カッツ「反成長的な慣行を社会的なセーフティネットと所得配分政策に置き換えよ」
http://mojix.org/2010/01/13/hanseichou_safetynet
鶴 光太郎「日本の労働市場制度改革」
http://mojix.org/2009/07/12/tsuru_roudou_sijou
離婚にも双方の合意が必要なのだから、解雇にも双方の合意が必要だ、と言いたいのだろうが、これには驚いた。
契約の成立には双方の合意が必要だが、契約の解除にも双方の合意が必要なのだろうか?
例えば、あなたがケータイの契約をしたとする。しかし、しばらく使ってみたら、その会社のサービスに満足できなくなり、解約を申し出たとする。このとき、解約には双方の合意が必要だったら、どうなるだろうか?ケータイ会社は当然、解約してほしくないので、解約に合意しないだろう。すると、あなたは一生そのケータイ会社との契約を解除できないことになる。カフカも真っ青の不条理社会だ。
「契約の成立には双方の合意が必要」とは、「双方の合意がなければ契約状態を継続できない」という意味である。「AかつB」の否定は、「非Aまたは非B」なのであって、「非Aかつ非B」ではない。「非Aまたは非B」、つまりどちらか一方でも契約に不満足であれば、契約状態は継続されず、解除されるのが普通だ。
解雇規制とは、会社と労働者の雇用契約を、会社の側からは解除させないという国の強行規定である。これは会社側にとっては、「いったん入ったら、出てこれない」ということ、「出口がふさがれている」ことを意味する。出口がふさがれているのに、入口から入ろうとするだろうか?
この「出口をふさいでいる」こと、つまり会社に解雇を禁止していることこそ、日本の会社が中途採用を渋る理由であり、雇用が出てこない理由である。この縛りをなくして解雇を自由にすれば、解雇ももちろん増えるが、それ以上に採用が増えて、労働市場で人が回りはじめる。人の移動が活発になれば、産業構造が世界の状況変化に対応しやすくなり、日本も競争力を維持できるだろう。
昨日のエントリでは、この「出口をふさいでいる」ことの意味を説明するために、「離婚禁止」というバカげた仮定を持ち出した。ところが、その離婚というものがたまたま、「契約の解除に双方の合意が必要」というレアケースだったために、冒頭のようなコメントを招いてしまった。
結婚というのは、他に比べられるものがあまりないほど、重い「契約」だろう。しかしそうであっても、「契約の解除(離婚)に双方の合意が必要」という現状の制度は、個人的には賛同できない。しかし、今回は結婚・離婚が主題ではないので、それについては論じない。
少なくとも言えるのは、日本では「就職」というものが、まさに「結婚」と同じくらい「重い」契約と捉えられているらしい、ということだろう。だから、「解雇」も「離婚」と同じくらい「重い」のであり、冒頭のコメントのように、「離婚にも双方の合意が必要なのだから、解雇にも双方の合意が必要だ」と考える人が出てくる。
この「重さ」こそが、企業が人を採用できない理由であり、これによって労働市場が硬直してしまい、さまざまな雇用問題を引き起こしている。解雇規制がなくならないのも、雇用契約を「一生の契り」であるかのように「重く」捉える見方が、まだまだ多いからだろう。
実際のところは、雇用契約とは「労働サービスの売買契約」にほかならない。半年や1年の労働サービスであれば気軽に買えるが、「一生分をまとめ買い」しなければならないため、なかなか買えないのだ。
企業が「一生分のまとめ買い」を強制されている理由は、本来は国の役割であるセーフティネットを、日本では政府が企業に押しつけているからだ。この規制がなければ、企業はもっと成長できて、雇用も出てくるのに、逆効果になってしまっている。解雇規制をなくし、「一生分のまとめ買い」を企業に強制することをやめれば、驚くほどたくさん雇用が出てくることだろう。
私は主に経営者の視点から見ているが、経営者のみに都合がいい話を書いているつもりはない。そもそも、「経営者のみに都合がいい話」「労働者のみに都合がいい話」といったものはないと私は考えており、制度や社会設計がダメな場合、そのコストは結局のところ社会全体で払わされると思っている。
その意味で、解雇規制は日本全体に不利益を与えている「ダメな制度」なのだ。よってこれをなくせば、ほとんど価値を生み出さずに高給を得ている一部の人を除き、労働者も含めたすべての人にとって、事態が良い方向に向かうだろう。なぜならば、解雇が自由になれば、労働者は生み出す価値や人材としての競争力によってのみ評価され、要するに「フェア」になるからだ。もちろん、経営者も神様ではないので、人材を正しく評価できるとは限らない。しかし、人材を正しく評価できるかどうかは経営の結果に反映されるはずなので、経営者・企業もまた、市場によって「フェア」に評価されるのだ。
そして、解雇規制がなくなれば転職が容易になるので、労働者は「この会社はダメだ」と思ったら、すぐに見切りをつけることができるようになる。つまり、経営者・企業は市場から評価されるだけでなく、労働者からも評価されることになるのだ。現状では、労働者の側から辞めることは制約されていないが、転職が難しいために、「辞めるぞ」という交渉カードを出すことは「命がけ」になってしまう。よって、残業や転勤、飲みニケーションといったものを拒否できず、生活が会社に侵食されてしまうのだ。これはまさに、企業に対して解雇を制約することで生じたコスト(機会費用)が、労働者に跳ね返ってきているのである。
企業の「自由」を奪っても、労働者の「自由」が増すわけではない。むしろ、労働者の「自由」も奪われてしまうのだ。「自由」とは、そういうものである。一方の「自由」を奪っても、他方がもっと「自由」になるわけではないのだ。「自由」とは、お互いが合意して、いっしょに生み出すものである。
関連エントリ:
労働者は「労働サービス」の提供者であり、その意味では「経営者」である
http://mojix.org/2010/03/18/worker_service_provider
日本の問題は、「人の流動性」が低すぎてノウハウが循環しないことにある
http://mojix.org/2010/03/08/knowhow_junkan
リチャード・カッツ「反成長的な慣行を社会的なセーフティネットと所得配分政策に置き換えよ」
http://mojix.org/2010/01/13/hanseichou_safetynet
鶴 光太郎「日本の労働市場制度改革」
http://mojix.org/2009/07/12/tsuru_roudou_sijou