2010.03.18
労働者は「労働サービス」の提供者であり、その意味では「経営者」である
先日の「日本は「消費者独裁国家」である」に対して、EU労働法の専門家・濱口桂一郎(hamachan)氏よりツッコミが入った。

EU労働法政策雑記帳 - 労働の消費者は使用者です、もちろん。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-b158.html

日本は「消費者独裁国家」である」について、<云ってることはおおむね正しい。というか、おおむね賛成>とした上で、私がそこで書いた

<雇用であれば労働者が「善」、会社が「悪」>

という部分に対して、濱口氏は

<経済学の初等教科書を引くまでもなく、労働の供給者が労働者であり、労働の消費者が使用者であります>

と指摘している。

この指摘はまったくその通りであり、「経済学」的に言えば、<労働の供給者が労働者であり、労働の消費者が使用者>となる。

労働者は、「労働サービス」の供給者・提供者である。雇用契約というのは、企業という「消費者」が、その「労働サービス」を購入する、という市場取引である。

これは企業から見れば、一種の「仕入れ」であり、「労働力を仕入れている」と考えればわかりやすい。

私はむしろ、この「経済学」的な見方こそが正しいと思っている。労働者は「労働サービス」の供給者・提供者であり、その意味では「経営者」なのだ。私はそう考えているし、このような理解がもっと進んでほしいと思っている。

しかし現実の日本では、そのような理解が「常識」になっているとは思えない。労働者は、自分は「労働サービス」の供給者・提供者であり、その意味では「経営者」である、という自覚があるだろうか。自分は会社に対して「労働サービス」を売っており、会社はそれを買ってくれる「お客さん」だという認識を持っているだろうか。また政府は、労働者をサービスの供給者・提供者として扱い、その労働者を雇用する会社を消費者・顧客として扱っているだろうか。

もし労働者が、自分は「労働サービス」の供給者・提供者で、会社は「お客さん」であることを自覚していて、かつ政府もそのように考えているならば、解雇規制というものはありえないだろう。解雇規制というのは、会社が正社員をいったん雇ったら、会社側からはほぼ解雇できないというものだ。これはいわば、会社が労働者から「労働サービス」を買ったら、その労働者の定年までそれを買い続けなければならない、ということだ(「巨大な生涯契約」の構造)。政府はこれを会社に強制しているのだから、「消費者」たる会社を保護するどころか、むしろ「押し売り」の側を保護しているようなものだ。会社側が「もう要らない」と言うことを許さず、「それくらいガマンして、買い続けなさい」と言っているのが解雇規制である。

政府がほんとうに「押し売り」を保護し、「消費者」にガマンを強いる意図があるとは思えない(通常はその反対だろう)。よって、解雇規制が成立している現状の日本では、労働者も政府も、労働者はサービス提供者で、会社はそのサービスの消費者だという「経済学」的な認識を持ってはいない、と考えられる。むしろ、労働者のほうが「消費者」「顧客」「お客さん」的な立場であり、だからこそ「保護」されるべきだ、と考えているのではないだろうか。

そのような考えから、「日本は「消費者独裁国家」である」では、労働者をあえて「消費者」の側に位置づける図式化をおこなった。私自身は労働者を「消費者」とは考えていないが、日本の一般的な傾向としてはそう考えられていると思う。「日本は「消費者独裁国家」である」は、日本の問題点を図式的に提示したエントリなので、私から見て誤った認識だと思われるものを図式化している。

労働者は「労働サービス」の供給者・提供者で、会社は「お客さん」であることを理解している労働者は、自分の労働サービスに対する会社の「買値」が不満なとき、それを「お客さん」たる会社のせいにして文句を言うことはないだろう。もっといい「買値」を出してくれる「お客さん」に売ればいいだけの話だからだ。

自分の商品が売れないとき、それを「客がバカだからだ」と考える商売人はほとんどいない。いたとしても生き残れず、すぐに淘汰されるだろう。自分の給料や待遇に不満なとき、それを会社のせいにしている労働者は、自分の商品が安値でしか売れないことを「客がバカだからだ」と考えている商売人に等しい。そんな商売人には客は寄りつかないだろう。

労働者は「労働サービス」の供給者・提供者で、会社は「お客さん」であることを理解している人は、労働契約も市場取引のひとつに過ぎない、ということも理解しているはずだ。市場取引は、取引する2者が互いにメリットがあり、相互に効用を高めるときにのみおこなわれる。少なくとも一方が気に入らないならば、取引しなければよい。2者の合意により取引がおこなわれ、2者が合意できなくなったら取引は終了する。

この市場取引に政府が割って入り、一方に規制をかけると、もう一方はトクするだろうか。それはありえない。単に、規制される側のコストが増えて、取引が減るだけだ。結局、規制がなかったときよりも取引コストが上がり、取引の総量は減るので、規制されない側も結局ソンをする。市場はつながっているので、どこかに規制をかけても、そのコストは必ず伝播し、ひろがるのだ。

日本は解雇規制があるために、企業にとって正社員を採用するということは、数億円規模の「巨大な生涯契約」になる。企業はそんな敷居の高い契約はなかなかできないので、正社員のワクは小さくなり、なるべく派遣や外注で済まそうとする。いっぽう新卒の学生は、その「巨大な生涯契約」に殺到して、就活で何十社も受けまくり、それで1年くらい振り回されたりする。その「巨大な生涯契約」を取ることに失敗すれば、その後のチャンスはかなり小さくなり、非正規雇用という「身分」がほぼ決定してしまうのだ。

解雇規制の支持者は、解雇規制は企業を不利にすることで、労働者を有利にしている、と考えているのだろう。だからこそ、私のような解雇規制反対論に対して、「それは経営者を有利にするだけだ(それは労働者を不利にする)」と考えるのだろう。これは間違っている。

解雇規制という規制の「コスト」は、他のあらゆる規制にも増して、きわめて大きい。それは社会から「人の流動性」を奪ってしまう。さらに、規制で保護される側の人から、「自分が提供した価値に応じて対価が得られる」という当たり前の経済感覚を失わせる。その「ツケ」を払うのは、会社だけでなく、規制で保護されない側の人を含めた、社会全体である。

いまの日本経済の惨状は、全体への影響や「コスト」を考えずに、そのような規制や保護を増やしつづけてきた結果である。日本は「ガンバリズム」的な精神論が強すぎて、制度論の観点に欠けている。ダメな制度、ダメな「構造」を変えるという制度論に話が進まず、「だらしない、頑張りが足りない、もっと頑張れ!」という精神論と、「誰々が悪い」という犯人探しばかりになる。雨漏りしているなら、その原因である雨漏りを直すという「構造改革」しかないのであって、いくら洗面器を一生懸命に取り替えつづけても、雨漏りは直らない。

日本の労働者が、自分は「労働サービス」の供給者・提供者であり、その意味では「経営者」であるという自覚、「独立」の精神をもっと持つようになれば、日本は必ず復活できる。政府も、企業に解雇を禁じて労働者を無理やり保護するという「会社のセーフティネット化」をやめて、「労働サービス」の供給・提供力が低い人をサポートし、「売れる人材」に仕上げていくことこそ本当のセーフティネットである、というふうに考え方を変えれば、いろいろなことがうまく回り始めるだろう。


関連エントリ:
日本は「消費者独裁国家」である
http://mojix.org/2010/03/14/shouhisha_dokusai
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http://mojix.org/2010/03/10/shougai_keiyaku
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http://mojix.org/2009/01/24/my_labour_company