2010.10.18
何が「善」であるかは必ずしもはっきりしないが、何が「強制」であるかははっきりしている
先日のエントリ「世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼」は、はてなブックマークで1000以上ものブックマークがつくなど、きわめて大きな反響があった。

このエントリについて、「見えない道場本舗」のgryphonさんがこのように評している。

見えない道場本舗 - 「右翼とは?左翼とは?」をざっくり一言で表した「上下・ウチソト」理論が話題
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20101017#p3

<本人も当然自覚しているようだが、例えば素人の私だっていくらでも例外は反論はあげられる。ただし、その例外や反論を、上の標語のような定義にぶつけるとそれ自体で議論や理解が深まる・・・そういう、「有益な乱暴さ・単純さ」が上の定義と、それを論じたリンク先の文章にはあると思う>。

これは私自身の気持ちにとても近い。今回のエントリについては、松尾匡(ただす)氏の図がきわめてわかりやすいことが反響を呼んだ原因の大半だと思うが、このエントリに限らず、私は「有益な乱暴さ・単純さ」をつねに目指しているといってもいい。

「それは単純すぎるんじゃないか?」と思われるくらい単純な図式、いわば「極論」のほうが、人間は何か言いたくなるものだと思う(「極論の効用」)。それは化学反応の「触媒」みたいなもので、それを投げ込むことで、反応が起きる。賛同と反発が巻き起こり、その議論に引きつけられて、より多くの人がそれについて考えはじめる。

私は素人なので、「思い切って書ける」という強みがある。もし私が学者だったり、責任ある立場であれば、そうもいかないだろう。私は素人なので、専門家のような正確な知識は提供できないが、「有益な乱暴さ・単純さ」を投げ込むことで、「議論の口火を切る」ことはできる。これが、素人なりの貢献の仕方ではないかと思っている。

世界を上下に分けて~」のうち、左翼・右翼の違いを解説した前半部分は、経済学者の松尾匡(ただす)氏による図をそのまま紹介しているに過ぎない。私が独自に加えている見解は後半部分で、松尾氏の図とノーラン・チャートがどういう関係にあるかという説明と、リバタリアニズムに対する私自身の考え方を述べている。

そのリバタリアニズムについて書いた部分に対して、こういう面白い反応があった。

Raurublock on Tumblr
http://raurublock.tumblr.com/post/1317450178

<この一見合理的に見えるリバタリアニズムが現実として一般大衆から支持を得られていない原因は何かという点なのだけど、「他人に善を押し付けたり強制したりしたがることこそが人類の社会的生物としての本質であって、『お互いの自由を尊重する』というリバタリアニズムの思想は人類の生物的本質に反する」というのが私の見解。そして、「他人に善を押し付けたり強制したがる」ことは、一見非合理的なように見えるけれど、実はとても重要な性質で、もしこの性質が無かったら人類は「社会」というものを形成できなかっただろうと私は見る>。

<この私の考え方が正しいとすると、次の疑問が浮かんでくる。おそらく「自由」という概念自体からして人類の本質と100%は相容れないと思われる。その場合我々は、「自由」という概念に、どの程度の価値と優先順位を置くべきだろうか>。

このRaurublockさんは、以前「規格外の東大名誉教授、西村肇」で言及したことがある(「確かに、まず日本語ではあるが」)。今回も冴えた記述であり、面白い指摘だと思う。

現状ではリバタリアニズムが支持を得られていないのはその通りなのだが、支持を得られていない理由は、ここでRaurublockさんが書いている理由とは違うように私は思う。ここではそれを説明することで、「世界を上下に分けて~」の後半部分に対する補足としたい。

<他人に善を押し付けたり強制したりしたがることこそが人類の社会的生物としての本質>とRaurublockさんは書いているが、その「善」の内容がしばしば間違うことがあるからこそ、これまでにたくさんの悲劇が起きてきた、と私は考える。「地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)」という言葉は、1000年近く前から、そのような「善」の危険性に対して警鐘を鳴らしている。「ナチスの「25カ条綱領」は日本人必読では」でも書いた話だが、ヒトラーだって、おそらく当人にとっては「善」だったと思う。

「人類の生物的本質」は、それ自体が必ずしも「善」ではないだろうし、「善」であった場合も、それが正しいとは限らない。よって、それは尊重すべき場合もあるが、理性で抑え込むべき場合もある。「人類の生物的本質」が、もし悲劇をひき起こすような残念なものであるのだとしても、悲劇が起きるに任せておけばいい、とは思わない。

<おそらく「自由」という概念自体からして人類の本質と100%は相容れないと思われる>とあるが、この「人類の本質」とはなんなのだろうか。このような「本質論」は、むしろ「人類の本質は○○だ」といった言い方で、都合よく使われてしまいやすい懸念がある。もし権力者が「自由は人間の本質と相容れない」と語ったら、かなり危険だと私は感じる(最近の例では、「鳩山論文」がまさにそれに近かった)。なんなのかわからないものは、前提や出発点にはできないと私は考える。

私にとっては、「人類の本質」よりも「自由」のほうが明快な概念である。何が「自由」で、何が「強制」かは、子供でもわかると思う。「人類の本質」が何かはわからないが、それに「自由」に反する部分があるのだとすれば、それこそ悲劇を引き起こす要因であり、理性によって抑え込むべき部分ではないだろうか。

リバタリアニズムは「善」を否定していない。リバタリアニズムが否定するのは「強制」である。何が「善」であるかは必ずしもはっきりしないが、何が「強制」であるかははっきりしている。何が「善」なのか、何が「人類の本質」かといった「本質論」を問うことなしに、現実の「強制」に反対するのがリバタリアニズムの立場である。

リバタリアニズムは「善」を否定しているのではなく、「強制」を否定している。よって「強制的な善」は否定するが、「強制的ではない善」、つまり「合意にもとづく善」はまったく否定していない。社会を形成する秩序がもっとも望ましいものになるのは、この「合意にもとづく善」が秩序として具現化したような場合だろうと思う。

少なくともアメリカでは、リバタリアニズムは多数派ではないとしても、日本よりもだいぶ普及しているように見える。そのことの是非、それがいいか悪いかは別としても、それは観測可能な現実なのだから、<リバタリアニズムが現実として一般大衆から支持を得られていない>ことを<人類の社会的生物としての本質>に帰着させるというRaurublockさんの見方は、あまり説得力がないように思う。

リバタリアニズムが日本で普及していないことを、<人類の社会的生物としての本質>に帰着させるのは納得できないけれども、「これまでの日本」がおそらくリバタリアニズムと真逆であったために、それになじめなかったり、注目を集めなかった、というのはあると思う。つまり、これまでの日本は少なからず「全体主義」的な国だったのであり、個人の「自由」に対する意識が希薄なところがあったと思う。

日本では、政府が「自由」より「強制」のほうがうまくいくと考えているので、政策が「パターナリズム」寄りになる。国民の側も、いわば「牢獄」に慣れてしまい、責任がともなう「自由」よりも、責任のない「奴隷」のほうが気楽だと考えているようなところがある。そのような「全体主義」体制は、高度経済成長の頃まではうまく機能していたが、先進国になり、むしろ新興国に追われる立場になって、それがもう通用しなくなってきている、というのが私の現状認識である。

これまでの日本の「全体主義」を制度的に支えてきたのが「中央集権体制」であり、これが行き詰まってきた。「子離れ」できないパターナリズムの政府と、「親離れ」できない奴隷志向の国民が相互依存関係にあり、いまだにここから抜けられない。いまの日本は、あれこれ口やかましい上司が、部下にまったく権限や裁量を与えないまま、結果を出せと言っているようなものだと思う。結果を出すには、まず「自由にやらせる」必要がある。それなのに、「なぜ結果を出せないんだ」とますますキツく当たり、権限や裁量をいっそう奪っているような感じなのだ。

これからの日本は、より「分権」的な体制に移行していき、地方や個人の「自由」、つまり権限や裁量を拡大する方向に進むしかないと私は考えている。この意味でも、リバタリアニズムはこれからの日本がまさに必要としている考え方であり、現状では普及していないとしても、これから発見され、広まっていくだろうと思う。

世界を上下に分けて~」に対するはてなブックマークツイッターでの反響を見ていると、右翼と左翼は1次元的に反対のものだとこれまで思っていたが、実はそうではないことが初めてわかった、という喜びがたくさん伝わってくる。これはまさに、かつての私がノーラン・チャートに出会って、「わかった」という喜びを感じたのと同じだ。だから、きっと私と同じように、「右翼でも左翼でもない」リバタリアニズムをこれから発見する人が、日本にもたくさんあらわれてくるだろうと思う。


関連エントリ:
世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼
http://mojix.org/2010/10/15/matsuo-uyosayo
鳩山由紀夫「A New Path for Japan」
http://mojix.org/2009/08/30/a_new_path_for_japan
ノーラン・チャート
http://mojix.org/2008/04/20/nolan_chart