2010.04.04
浅尾慶一郎議員のTwitter「炎上」について:本質論と手続き論
Twitter - あさお慶一郎
http://twitter.com/asao_keiichiro/status/11452429364

<自民党の若林参議院議員が議員辞職をした。会派で賛否が決まっている事案で他の議員のボタンを押すのと、親やゼネコンから不明朗なお金をもらうのと、どちらが有権者に対する裏切り行為なのだろうか?>(2010-04-02 09:24:32)

みんなの党に属する衆議院議員、浅尾慶一郎氏のこのTwitterでの発言が、一部に反発を呼んでいるようだ。

Togetter - みんなの党 あさお慶一郎 大炎上!!!
http://togetter.com/li/12287

このまとめページは、浅尾議員に反対する立場の人が作成したもののようだが、どのような反応が起きたかの概略がつかめる。

浅尾議員がここで立脚しているのは、「政治家として本当にやるべきことは何か」「政治家としてやってはならないことは何か」ということを、現状のルールや慣例をうのみにせず、何がほんとうに国民のためになるのか、逆に何が国民のためにならないのかという観点から考える、いわば「本質論」の立場だ。

浅尾議員は、党議拘束によって政治家本人の判断が実質的に封じられているのであれば、隣の議員のボタンを押すことよりも、党議拘束のほうが「本質」的な問題だと見ているのだろう。これに賛同できない人もいるだろうが、党議拘束が問題であるという見方を採る人は少なくないし、それほどおかしな考え方ではない。私自身もこの見方だし、自民党の河野太郎氏もこの見方のようだ。

Twitter - 河野太郎
http://twitter.com/konotarogomame/status/11479021678

<その通り。なんでも党議拘束していることがまず問題です。@omiyas: 理屈の上では,若林氏は間違っていることをしているし,幼稚だと思うけど,党議拘束でがんじがらめになっている日本で,本会議の投票にどこまで意味があるのか分からない>(2010-04-02 22:01:19)

これに対して、隣の議員のボタンを押すことはとにかくダメだ、という見方は「手続き論」の立場である(この見方のものは、上のまとめページにたくさんある)。これについては、増田聡(smasuda)さんという方が書いているものが、私の見方とほぼ同じだ。

Twitter - 増田聡
http://twitter.com/smasuda/status/11481466788

<若林議員辞職のニュースみてると、この国で最も神聖不可侵な観念は民主主義というより手続的正義の観念なのだなあと思う。賛成反対の実質(どうせ党議拘束だから影響ないし)に関係なく、不当な手続は当然辞職に値する、と誰もが疑わないってのも妙なイデオロギーと思うんだけど。手続的正義原理主義>(2010-04-02 23:00:43)

この「手続的正義」という思考様式は、郷原信郎氏が「法令遵守」と呼んでいるものに近く、日本人によく見られる傾向だ。とにかく法は正しい、法を守ることが「正義」だ、という立場であり、よって法を守らない人は「悪」であり、みんなで糾弾すべし、というふうになる。

「本質論」的な立場からすると、「法」は「正義」と同じものではないので、「法」を疑う場合もある。浅尾議員は、「隣の議員のボタンを押す」ことを決して擁護しているわけではないが、「とにかくダメなものはダメ」式の硬直した考え方、「法令遵守」的な考え方に対して疑問を投げかけたのだ。現状では違法ではないとしても、「隣の議員のボタンを押す」よりもはるかに「正義」に反することがあるのではないか?という見方は、「本質論」的な立場からすれば当然のものだろう。

上のまとめページでは、浅尾議員の発言に対して、「国会議員の意味をわかっているのか?」「民主主義の否定だ」といった反発が多数見られる。これこそまさに「法令遵守」思考であり、「オマエは不法者を擁護するのか?」式の糾弾であると感じる。浅尾議員は「国会議員の意味」「民主主義」というものの「本質」を重視しているからこそ、「隣の議員のボタンを押す」という「手続き的」な不法よりも、不法ではない「党議拘束」こそが「本質的」な問題であり、むしろそれこそが「国会議員の意味」「民主主義」を失わせている、というふうに見ているはずだ。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、「ヒトラーがドイツでやったことはすべて合法だったことを忘れるな」と言った。いかに「合法」であっても、それが「正義」であるとは限らないのだ。このマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの立場こそ、まさに「本質論」である。

「法」と「正義」を同一視してしまう「法令遵守」的な立場は、一見正しそうにも思えるが、むしろ「正義」とは何かということを自分で真剣に考えておらず、単に「多数に流されている」という側面がある。郷原信郎氏は、この種の態度を「思考停止」とも表現している。このような「法令遵守」「思考停止」的な見方が強い国では、「法」と「正義」のズレを検証できないので、「法」がどんどん現実世界から乖離していき、むしろ「正義」とかけ離れたものになっていく。

「法」と「正義」を同一視する人たちに対して、その同一視を疑う意見を言うことは、何らかの宗教を信じている人たちに対して、その神の存在を疑う意見を言うようなところがある。今回の浅尾議員の発言は、日本で支配的な「法令遵守」「手続き論」的な見方に対して、「本質論」をぶつけた格好なので、強いバッシングが起きたのだろう(以前、私自身も似たような図式でバッシングを受けたことがある)。

私から見れば、浅尾議員の今回の発言は、氏の「独立精神」に基づいて、堂々と「本質論」的な指摘をおこなったものと映る。「本質論」はその構造上、つねに現状に対する批判的思考(クリティカルシンキング)なので、多数に流されない「独立」的な精神と切っても切れない関係にある。

上記のまとめページにおいて、浅尾議員の発言に対する反応がかなりヒステリックなのも、それだけ「法令遵守」の正しさを疑わない、一種の「狂信」が表出したものだ、というふうに私は感じる。あくまでも冷静な議論として異を唱えるなら大いに結構だが、浅尾議員に対する侮辱、ひどい悪口がここぞとばかりに噴出しているのは、悲しい光景だ。ネットでは、こういう「集団リンチ」的な「炎上」がたびたび起きるが、そういうときは大抵、まともな議論が人格攻撃の渦に埋もれてしまう。

そして今回の場合、浅尾議員の属する「みんなの党」の支持率が急上昇しており先日の逗子市議選では民主党すら超える得票を得たということも、この「炎上」と無縁ではない。去年であれば、おそらくここまで叩かれなかったはずだ。それだけ「みんなの党」の存在感が増しており、民主党をおびやかす有力な存在になりつつあるということだろう。


関連エントリ:
「ヒトラーがドイツでやったことはすべて合法だったことを忘れるな」(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)
http://mojix.org/2010/02/22/never_forget_that
「法学的思考」と「経済学的思考」
http://mojix.org/2009/10/06/hougaku_keizaigaku
郷原信郎『「法令遵守」が日本を滅ぼす』 法令と実態が乖離した「法治国家ではない日本」
http://mojix.org/2009/08/18/gouhara_hourei_junshu