2010.10.05
「やってみないとわからない」というスタンスは無責任なのではない
Casual Thoughts - 撤退が上手(?)なアメリカ人の気質
http://d.hatena.ne.jp/ktdisk/20101002/1286005431

<私の会社は数あるアメリカ企業の中でも最高クラスに物事が途中でとまる(多分)。先日も、とあるシステム導入プロジェクトのユーザの受入検収テストの最中に突如プロジェクトが中止となったし、導入後1年待たずにリプレースのプロジェクトが走り始めることはざらだ。会社として未熟なところも多分にあるが、そんな中にもアメリカ人の気質が垣間見えることが多いので、何故事後に物事が容易にストップするのか少し考えてみたい>。

<私は社内でアメリカ人からうんざりされることが多い。プロジェクトの業務要件を決める会議などで、レアケースも含めて網羅的に考慮ポイントを説明したりすると、最初のうちはうなずきながら興味深そうに聞いているのだが、次第に疲れが顔にではじめ、ついには「いや、色々あるのはわかったけど、とりあえずやってみて、駄目ならその時考えよう」と言われることが非常に多い>。

<アメリカ人は総じて、事前に考慮事項を洗い出し、シミュレーションして対策を講じるというのが苦手で、あれこれ考える前にとりあえずやってみようというアプローチをとることが殆ど。そういう点でアメリカ人は事後にストップする仕組みをきちんと整備しているというよりむしろ、うまくいかなかったら軌道修正したり、場合によってはストップすることを前提に物事に取り組むといったほうが正確だろう>。

これは面白い。アメリカ人は総じて、「とりあえずやってみて、ダメだったらやめる」という考え方をする、とのこと。

この話は、単にアメリカや日本の国民気質・文化論というだけでなく、政治や経済、ビジネスの本質にかかわってくる重要な話だと思う。つまり、これは「方法論」の話なのだ。

「やってみないとわからない」というこのアメリカ的なスタンスは、日本人からは「無責任」「無計画」と思われやすいかもしれない。しかし、これを逆に見れば、日本人というのは「やってみなくても、あらかじめ計画できる」ということを前提にしている、ということでもある。

「やる前から事前に計画する」ことは、日本人からすると「責任がある」「計画性がある」というプラス評価になるかもしれないが、「やってみないとわからない」というアメリカの実践主義から見れば、「なぜやってもいないうちから、それを決めつけられるのか」というふうに、むしろ「無責任である」「机上の空論」というマイナス評価になるかもしれない。

「やってみないとわからない」という立場からすると、やる前にあれこれ考えるのは時間とリソースのムダであり、とにかくやってみて、ダメだったら撤退するわけだ。この方法では、「失敗」は日常茶飯事であり、むしろ無数の「失敗」を繰り返しながら、「成功」にたどりつく。

いっぽう日本では、この「失敗」が許されない。「やる前から事前に計画する」のも、「失敗」しないためなのだ。しかしこれでは、少しでも「失敗」の可能性があるものは「やってみる」ことができず、やる前から潰されてしまう。逆に、いったん始まってしまったものは、「失敗」しないことが前提になっているので、計画と現実が乖離してきても、「撤退」ができない。「失敗」がいわば「タブー」なので、隠蔽されてしまうわけだ。

「やってみないとわからない」というアメリカ的なスタンスは、決して無責任なのではなく、むしろ「現実」というものの豊かさ、その「予測不可能性」をわきまえているのだ。「撤退」や「失敗」が許されてこそ「成功」も出てくる、ということが理解されているので、「撤退」や「失敗」は責められないし、むしろチャレンジしていることが賞賛される

いっぽう日本では、「やる前から事前に計画できる」という思い込みがあり、「現実」というものの豊かさや「予測不可能性」を軽視している。「撤退」や「失敗」は許されず、「ほれ見たことか」と叩かれてしまいやすい。こういうネガティブなカルチャーでは、「やってみる」という積極性は潰されてしまい、「やめておく」という消極性が支配することになる。

「やってみないとわからない」「やってみてから考える」というアメリカ的なスタンスは、ITの用語でいうと、開発手法の「アジャイル」や、プログラミングの「遅延評価」に通じるものがある(「「必要になったときに学ぶ」遅延評価的学習法」参照)。事前に全部計画して、事前に全部計算しておくという方法は、たしかに失敗を減らせるかもしれないが、とてつもなくコストがかかる。さらに、状況や仕様が変わってしまえば、その計画や計算はやりなおしになるので、いったん走り始めると、変化に対応できない。「アジャイル」や「遅延評価」は、その「事前の計画」「事前の計算」をできるだけなくすことで、現実とのズレによるコストを最小化するアプローチだ。現実の「コスト」を重視し、「変化」を許容するからこそ出てくる考え方であり、決して「無責任」なのではない。

元のktdiskさんのエントリでは、<人がよく辞めるので、しがらみが少なく、過去を否定しやすい>として、このアプローチが雇用制度と無関係ではないことが指摘されている。

<日本企業で一度走り出したことを止められないのは、その事案の責任者の面子や立場慮ることも一つの要因と思うが、程度の差こそあれ、それはアメリカ人も実は同様。アメリカ人は日本人以上に自分の間違いを認めたがらないので、プロジェクトの責任者にシステムやプロセスの妥当性に疑問を呈すると烈火のごとく怒るケースもしばしば。そういったことで、アメリカ人と議論になり”You are dick!!”と罵倒された経験もある・・・>。

<ただ、アメリカ企業は日本企業と比較すると離職率がはるかに高いので、その手のしがらみは終身雇用が前提となる日本の大企業と比較するとはるかに低い。2年前に稼働したシステムの主要メンバーの8割は既に会社にいないなんてケースもあり、心置きなく一からやり直しやすいのは事実>。

まったくその通りだろう。つねに人が流動するアメリカと、なかなか人が流動しない日本。もちろん、それぞれにメリット・デメリットがあるが、いまの日本経済の凋落は、この「人が流動しない」という雇用制度に原因があることは間違いないと思う。かつてはそれでうまくいっていたかもしれないが、いまの世界、いまの時代には、それではうまくいかなくなってきている。しかし、日本は「変化」を許容できず、「変われない」のである。「失敗」を許さないカルチャーと評価尺度がその根本原因であり、さらに制度がそれをいっそう強化してしまい、「やり直しのきかない」社会になってしまっているのだ。


関連エントリ:
失敗できない日本
http://mojix.org/2010/03/07/shippai_dekinai
競争好きのアメリカ 「敗者への寛容」と「勝者への寛容」
http://mojix.org/2009/12/11/america_two_kannyou
1年のあいだに5700万人が職を失い、5100万人が採用されるアメリカ
http://mojix.org/2009/12/01/usa_kaiko_saiyou
アメリカ人は「希望駆動型」、日本人は「危機感駆動型」
http://mojix.org/2009/07/31/us_kibou_jp_kiki