2009.05.11
シリコンバレーに「ひらがな論者」あらわる
最近ネットでちょっと話題の「確かに読めてしまう」コピペ。これは面白い。

<こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく>

というのがコピペの内容で、「人間は文字を認識するとき、その最初と最後の文字さえ合っていれば、順番はメチャクチャでもちゃんと読める」ということを、まさに証明する内容になっている。

この話題は、英文では以前見かけたことがあり、エントリにも書いている(2003年9月)。

Scrambled Text / 単語はオブジェクト
http://mojix.org/2003/09/16/051750

ここで私は、<単語をスペースで区切る英語では、日本語などに比べて、単語に対する「オブジェクト」感がたしかに強そうだ>と書いている。逆にいえば、日本語はスペースで区切らないので、「単語のオブジェクト感」が弱いわけだ。

だから、今回の「確かに読めてしまう」コピペで、この「文字入れ替え」の話が日本語で出てきたのは驚いた。ひらがなだけを使い、分かち書きをすれば良かったのだ。

この話題をまとめた、「「確かに読めてしまう」コピペが流行中―英文元ネタや派生ジェネレータも」という記事の中で、このコピペの元ネタとして、以下のブログエントリが紹介されていた。

ぼんやりと考えたこと - ひらがなせいかつ への いざない
http://n.h7a.org/blog/entry/1594

このページのコメント欄に、上記の「確かに読めてしまう」コピペに近いものがたしかに書かれている(書き込みは4/21)。

しかし、この「確かに読めてしまう」コピペ以上に、私にはこの「ひらがなせいかつ への いざない」というエントリが面白くて、興奮させられた。

<いちぶの ゆうじんたちは よくしっていると おもうけれど、ここのところ、ぼくは かんじを いっさい つかわずに せいかつする という じっけんを してみている。
 で、やってみたら、おもっていた よりも やれそうな きが してきて だいぶ じしんが ついたので、とうとう ここに せんげん することに します>。

という文に始まる、ひらがなのみのエントリだ。読めばわかる通り、単にひらがなで書いてみたというのではない、信念と主張に基づいた実践になっている。

日本語の文字をどうすべきかという「国字問題」は、私が以前から興味を持っているテーマのひとつで、これまでも何度かこのへんの話題について書いたことがある(末尾の関連エントリ参照)。

ひらがな、カタカナ、漢字を使い分けられるのが日本語の強み」では、国字を改良すべきだという国字改良論を、以下の3つに分類した。

1) 漢字制限論: 使う漢字を減らしたり、かんたんなものに制限すべきという立場。福沢諭吉など。
2) ひらがな論・カタカナ論: ひらがな、カタカナを使うべきという立場。あべ・やすしさん、カナモジカイなど。
3) ローマ字論: ローマ字を使うべきという立場。梅棹忠夫など。

この3分類で言うと、「ひらがなせいかつ への いざない」を書いたひろしまなおき(廣島直己)さんは、2)の「ひらがな論」の立場になる。

実際、「ひらがなせいかつ への いざない」では、分かち書きについては「日本語を わかちがきする会」の方式に従うといった話が書かれているが、この「日本語を わかちがきする会」をやっているのが、ひらがな論者のあべ・やすしさんである。

ひらがな、カタカナ、漢字を使い分けられるのが日本語の強み」に書いたように、この国字問題については、私自身はひらがな・カタカナ・漢字を使い分けるという比較的穏健な立場だが、国字改良論者の問題意識にはかなり共感している。

この国字問題というのは「日本語をどうするか」という話だから、実は「日本の戦略」にも直結している重要な問題のはずだが、ほとんど議論されていない。ウィキペディアの「漢字廃止論」にも書かれているように、このテーマが活発に論じられたのは幕末~明治で、福沢諭吉以外に有名な人では前島密が国字改良論者(漢字廃止論者)だった。

幕末~明治に国字改良論が盛んだったのは、やはり開国・明治維新の頃は、「日本をどうすべきか」というのを皆が真剣に考えていたからだろう。良くも悪くも、「日本とはこういうものだ」という型がはっきりせず、揺れていたので、現状というものはただ受け入れたり、あたりまえだと思うものではなく、むしろつねに不満足なもので、よってつねに「改良」すべきものだったのだと思う。

私はずっと、国字改良論というテーマはきっと復活すると思ってきたし、また国字問題をはじめとする「日本語への意識の高まり」が、きっと日本復活のきっかけにもなるだろうと思ってきた。「科学は日本語を必要としないが、文化は日本語を必要とする」で書いたように、<日本語は、日本の「強み」と「弱み」、「ビジネスモデル」に直結している>のだ。

だから、この「ひらがなせいかつ への いざない」のようなものが、シリコンバレー在住のエンジニアであるひろしまなおき(廣島直己)さんから出てきたというのは、私にはよくわかる感じがするし、感慨深いものすらある。

にげる が かち」では、「わたなべちか の れい の エントリ」についても書かれていて、日本に対する危機意識という点では、渡辺千賀さんと同じ問題意識を持っていることがわかる。

この「シリコンバレーから見た日本の危機」という問題意識が、国字問題・日本語というテーマと重なったということで、梅田さん水村美苗『日本語が亡びるとき』を絶賛してから巻き起こった反応(「騒動」と言うべきか)を、私は思い出さずにはいられない(その「騒動」については、同エントリのコメント欄や、ブックマークページなどを見て欲しい。「科学は日本語を必要としないが、文化は日本語を必要とする」にも関連記事へのリンクがある)。「ひらがなせいかつ への いざない」にも、<ほろびゆく ちほう げんごである にほんご>とあるので、ひろしまなおきさんも『日本語が亡びるとき』の話を念頭に置いて、これを書いているものと思う。

梅田さんの『日本語が亡びるとき』評が引き起こした反応と、先日渡辺千賀さんが書いた「海外で勉強して働こう」が引き起こした反応には、似たところがある。日本ではなくシリコンバレー在住で、エリート的なキャリアを持ち、著書などで知られるオピニオンリーダー、といった立場の人が、「日本語は亡びる」「日本から逃げろ」といった意見を述べて、それに対してどこかしら「日本を守る」ようなナショナリスティックな反発が起きた、というところが似ている。

国民が政治を育てる」にも書いたように、いまの日本に危機をもたらしている中心問題は「政治」であり、そこを正面突破する以外に打開策はないと私は考えている。しかし、政治にせよマスコミにせよ、結局は国民・一般人に従うものなので、一般人が「みずから力をつける」ことも絶対に必要で、それが政治やマスコミを動かす。

マスコミや政治家にとっては、一般人は「お客さん」である。マスコミも政治家も「人気商売」であり、いかに多くのお客さんに支持されるかが自身の死活問題だから、「日本はもうダメだから、日本から逃げろ」などと、お客さんを批判するようなことは絶対に言わない。解雇規制の話がマスコミや政治でタブーになっているのもこれで、「働きが悪い社員はクビにすべきだ」などと言えば、すごい反感を買うのは間違いないから、絶対に言わないのだ。

いまの日本というのは、「保護」につつまれて、国民が「甘え」ている状態だ。ずっとその状態なので、どんどん力が衰えて、国が沈みはじめている。マスコミや政治家が、一般人という「お客さん」をいい気分にさせてばかりなので、「保護」に慣れきって、現状に問題があることをわからなくなっている。

しかしネットでは、「日本はもうダメだから、日本から逃げろ」とか、「働きが悪い社員はクビにすべきだ」といった、「甘え」をぶち壊すような意見、一般人が耳をふさぎたくなるような意見も「タブー」なしで出てくる。ネットにはノイズも多いが、有用な情報や視点も無数にある。情報源がほとんどマスコミしかなかった時代に比べれば、少なくとも一般人が「情報を選ぶ余地」が格段に大きくなった。一般人が「みずから力をつける」にあたって、ネットやブログなどの「ネット世論」が果たす役割はきわめて大きいのだ。

シリコンバレーにあらわれた「ひらがな論者」、ひろしまなおき(廣島直己)さんの「ひらがなせいかつ への いざない」は、梅田さんの水村美苗『日本語が亡びるとき』、渡辺千賀さんの「海外で勉強して働こう」などに連なる、「シリコンバレーから見た日本への問題意識」の延長上にありながら、国字論という「古くて新しいテーマ」をよみがえらせ、ひらがな論という具体的な「おもしろい実践」を生み出している。

冒頭の「確かに読めてしまう」コピペがこれほど反響を呼んだり、「ひらがなせいかつ への いざない」がそのきっかけになったというのは、ネットならではの動きだ。そして、そこに含まれているテーマ(人間の言語認識、日本語の国字問題など)も、マスコミにはなかなか出てこないタイプの、「普遍的すぎてマイナーな話題」だと思う。こういう話題が採り上げられて、一気に注目を浴びるというのも、ネットの面白さだろう。

もちろん、ひろしまなおきさんも書いているように、ネットではシニカルでネガティブな反応も多いので、単純にネット万歳とは言えない面もある。しかし、ネガティブな面も含めて、ともかく率直な意見がすぐに出てくるところがネットの強みであって、総合的にはポジティブな面が上回ると私は思っている。そしてこれが、政治についてのタブーなきオピニオンといった方向でも、今回の「確かに読めてしまう」コピペや、国字問題のように埋もれていたテーマの復活といった方向でも、さまざまな方向でネットの強みが生かされて、日本が再生するきっかけにつながっていくような気がする。つまり「ネットが日本を救う」のだ。

以前、「肯定と否定は、実はけっこう近い」というエントリを書いたことがある。

<何かについて否定的な意見を持っている人は、一見、それを肯定している人と反対側にいるように思える。
しかし、少なくともそれについて考えたり、話題にしているという点では、近いところにいるとも言える。
それについて無関心だとか、そもそも知らないという人のほうが、ほんとうの意味で遠いところにいる>。

日々ネット上で起きている言論バトルを見ていると、私はいつもこの印象を持つ。賛成にせよ反対にせよ、議論に参加している時点で、かなり近いところにいるとも言える。ネットを活用し、テーマを出し、意見を書き、議論をおこなうこと自体に意味がある。それが人間を引きつけ、流れが生まれていき、現実を変えていくのだ。

ひらがなせいかつ への いざない」は、「確かに読めてしまう」コピペというミームを生み出しただけでなく、そこに含まれている内容やその実践の面白さ、その動機になっている日本への問題意識や日本語の可能性など、私にとって印象的なポイントがたくさんある。ここまで書いてきたようなさまざまな意味で、多大なるインスピレーションを受けた。

ひらがな論の実践というところだけ取っても、そのアイディアは正しくかつタイムリーであり、ここから「ひらがなブーム」が起きてもおかしくないくらいの爆発力を秘めていると思う。「ひらがなせいかつ への いざない」は、日本語を変える可能性すらある、重要なエントリかもしれない。


関連:
ウィキペディア - 国語国字問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD..
ウィキペディア - 漢字廃止論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2..

関連エントリ:
科学は日本語を必要としないが、文化は日本語を必要とする
http://mojix.org/2008/11/17/kagaku_bunka_nihongo
ひらがな、カタカナ、漢字を使い分けられるのが日本語の強み
http://mojix.org/2008/07/05/hiragana_katakana_kanji
革命か、トンデモ本か - 中根康雄 『絶妙な速メモ(速記)の技術』
http://mojix.org/2005/09/29/122325
カナモジカイと山下芳太郎
http://mojix.org/2005/07/22/063749
漢字の可能性
http://mojix.org/2005/01/04/231854