2010.09.01
日本人から「勇気」を奪っているのは「クビになる恐怖」ではないか?
先日「日本に足りないのは「努力」ではなく、「理解」と「勇気」である」というエントリを書いたが、この「勇気」を日本人から奪っている最大のものは、「クビになる恐怖」ではないだろうか。

私は自分で会社を経営しているので、ブログで好きなことを書ける。取引先の人や、仕事の関係者も私のブログを読むことがあるが、私はそれをわかった上で書いている。私のブログでは政治ネタなども遠慮なく書いているので、「こいつは危ないから、近寄らないほうがいい」とか、「こんな考えの奴とは仕事したくない」と思われて、仕事を失う可能性もある。私は経営者なので、そのリスクを引き受けても、ブログに書きたいことを書く、という判断を自分自身でできる。

しかし、自分が経営者でない場合は、この判断を自分自身でおこなうことは難しいだろう。自分が書くブログの内容によって、会社の経営にリスクが生じたり、損害を与えかねないからだ。

例えば、官僚への批判をブログで書こうと思ったとする。これは個人の意見なので、本来は会社に許可など取る必要はない。しかし、その会社が役所と取引していて、かつそのブロガーが所属を明かしており、それなりに知られている場合、どうだろうか。

この場合、ブロガーが取りうる選択肢は次の3つだろう。

1)書く内容について会社に許可を取った上で、書く
2)会社に許可を取らずに、書いてしまう
3)差しさわりがないように、書かないでおく

1)のように、律儀に会社に話を通した場合、会社は何と言うだろうか。自由な会社であれば、「自分の意見であり、所属とは関係ないことをブログに明示してくれれば、もちろん何を書いてもいいよ」と言ってくれるかもしれない。しかし、すべての会社がそれほど度量が大きいわけではないだろう。「う~ん、ウチは○○と取引があるから、できれば所属を明かさないで、匿名でやってほしいね」と言われるかもしれない。あるいはもっと強行に、「もしそれを書いて、ウチの会社に経営的な損害を与えた場合、君はその責任を取れるのか?」なんて言われるかもしれない。

ブログに書くのに、いちいち会社に話を通すなんて面倒だし、話を通したところで、歓迎されないことは間違いない。だから、2)のように「勝手に書いてしまう」ことも少なくないだろう。そもそも、どんなことを書けば会社に損害を与えるリスクがあるのか、その線引きもむずかしいから、いちいち会社に話を通すなんて、やっていられないだろう。

しかし、会社に損害を与えるかもしれないことを、会社に許可を取らずに書くことは、リスクがある。内容の程度にもよるだろうが、思い切ったことを書く場合は、「クビを覚悟」だろう。大抵の人の場合は、自分のクビを懸けてまで、ブログに何かを書きたいとは思わないだろうから、3)のように「書かないでおく」ことになる。

結局、「クビになる恐怖」がきわめて大きいために、このブロガーはおそらく、3)のように「書かないでおく」を選ぶだろう。あるいは、どうしても書きたい場合は、本名や所属を明かさずに、変名・匿名で書くだろう。

ブログに限らず、日本ではこの「クビになる恐怖」が、人の行動をかなりの程度まで支配しているように思う。「クビになる恐怖」が強いために、自分が正しいと思う意見を主張できなくなるのだ。これが根本のところで、「日本の構造」を規定している。

よく批判されるマスコミや官僚なども、個別に見れば、聡明で理解力のある人がおそらくたくさんいる。日本の何が問題なのか、よくわかっている人はたくさんいるはずなのだ。しかし、その本音を言ってしまうと、「クビになる」かもしれない。マスコミであれば、そのメディアの基本的な立ち位置がある上に、言ってはいけない意見やトピック、「タブー」がある。官僚であれば、その組織に不利になったり、予算や権限を減らされる方向の意見は「タブー」だろう。政府の側から、「政府を小さくすべき」「公務員を減らすべき」「予算を削減すべき」「規制をなくすべき」といった意見は絶対に出てこない。

マスコミや官僚も、平均的な労働者よりは収入が高かったり、恵まれているかもしれないが、結局はただの「勤め人」である。自分や家族の生活を支えることが最重要だから、自分が本当に正しいと思う考えがあったとしても、生活の基盤を失うリスクを負ってまで、その考えをあえて主張することはないだろう。

このような構造、「クビになる恐怖」が強いために本音を言えないという構造は、まさに「恐怖政治」そのものである。この構造のために、日本では変革が進まないのだ。

私が解雇規制の議論にこだわるのは、雇用というものは生活や経済の基盤をなすもので、他に並ぶものが思いつかないほど重要なテーマであるだけでなく、この「クビになる恐怖」による「恐怖政治」の構造こそ、日本にとって最大のボトルネックにしてデッドロックであり、これを打開しなければ、日本は先に進めないと思うからだ。

そして皮肉なことに、解雇規制の議論がなかなか正しく理解されないのも、まさに「クビになる恐怖」が強いからなのだ。解雇規制をなくせば、労働市場が流動し、「クビになる恐怖」が大きく減る、というのが緩和派・撤廃派の主張である。しかし、一般的には「クビになる恐怖」がきわめて強いという現状があるために、解雇を自由にすると社会や経済がどう変わるかという理性的な議論に進まずに、「とにかく解雇はダメだ、だから解雇は許さない」という拒絶反応が起きて、感情的な議論になってしまう。

そもそも解雇規制という制度自体、それによって社会や経済にどういう全体的な影響が出るかを考えずに、「とにかく解雇はダメだ、だから解雇は許さない」という感情的な司法判断を根拠に成立したものだろう。よって、これを打開するには、理性によって感情的な判断を超える必要があるのだ。

「クビになる恐怖」が強いために、単純に「クビを禁止」してしまったのが解雇規制である。「不幸は望ましくないので、不幸を禁止する」というような発想だ。皮肉なことに、これによって労働市場の流動性が失われ、「クビになる恐怖」はむしろ強まってしまった。「クビを禁止」するのではなく、労働市場の流動性を高めて、「クビになっても問題ない」という状況を作り出す必要がある。

「クビになる恐怖」が支配する「恐怖政治」。いまの日本では、この構造が本音の意見を封じ込めてしまい、変革への「勇気」を奪っている。これが雇用の問題を超えて、「変革」を困難にしているのだ。これは政治だけでなく、会社レベルでも、個人レベルでもそうであり、「クビになる恐怖」のために、誰も正しい指摘ができなかったり、思いきったチャレンジができなくなっている。

解雇規制の議論では、緩和派・撤廃派の主張をおこなっているのは主に、学者やジャーナリストが多い。ネット上でも、私のような小さい会社の経営者や、学生などが中心のように見える。こうした人たちに共通するのは、「クビになる恐怖」から比較的自由な立場にいるという点だ。これはなぜだろうか。その理由は、おそらく以下の通りである。

解雇規制に問題があるという認識は、現状ではまだ一般的ではなく、むしろ「解雇を自由にすべきだ」という主張は、かなり反発を受けやすい。よって、読者や国民からの「人気」に支えられているマスコミと政治家にとって、この議論は「タブー」になる。こうなると、マスコミや官僚に属する「勤め人」はもちろん、一般企業の「勤め人」であっても、「解雇を自由にすべきだ」というタブー的な主張をおこなうことは、難しくなるだろう。「クビになる恐怖」がある上に、特に正社員は解雇規制に「守られる」側の立場なので、その問題点を指摘するには一層の「勇気」がいるだろう。

つまり、「クビになる恐怖」に支配されている「勤め人」の立場では、ただでさえ自由な意見が言いにくい上に、その「恐怖政治」の「体制批判」というのは、最も難しいものなのだ。よって、その「体制批判」ができるのは、クビを恐れない人、クビを恐れる必要がない人が中心になる。だから、緩和派・撤廃派の主張をおこなっているのが、学者やジャーナリスト、小さい会社の経営者、学生などが中心になるのだ。「しがらみ」が少ない人、と言ってもいいかもしれない。

変革に踏み切れない「変われない日本」、チャレンジを回避してしまう「失敗できない日本」の根本にあるのは、「クビになる恐怖」である。この「クビになる恐怖」から、「解雇は望ましくない」という司法判断が生じて、雇用を会社に強制する解雇規制という制度ができてしまった。これが労働市場を硬直化させ、企業の成長力を奪い、日本経済も沈みつづけている。その結果として、「クビになる恐怖」はいっそう増してしまったのだ。リスクを減らそうとしたが、方法が間違っていたために、リスクが増してしまったのである。これは経済学的にはあたり前のことだが、日本の立法や司法は経済学の観点を欠いているために、その「無知」のツケを国民全体で払わされているのが現状だろう。

「クビになる」かどうかは、本人の実力や、その会社の体力、経済状況などによって決まるものだ。そのリスク回避のコストを企業に押しつけて、解雇を禁止してしまったのが間違いである。社会保障のポイントは、アンソニー・ギデンズも言うように、職を守ることではなく、生活を守ることだ。つまり、労働市場を規制するのではなく、市場は自由にして、市場の外側にセーフティネットをはるべきなのだ(その具体例が「フレキシキュリティ」)。市場とセーフティネットは役割が異なるのであり、市場を規制してもセーフティネットにはならない

解雇規制の議論の難しさは、こうした議論そのものが、「クビになる恐怖」が支配する「恐怖政治」において、一種の「タブー」であり、それもいわば「体制批判」にあたるという、その因果な構造にある。


関連エントリ:
解雇規制による硬直的な労働市場こそ、日本経済が浮上できない最大の原因である
http://mojix.org/2010/08/23/kaikokisei-bottleneck
田原総一朗「日本に本当はタブーなんてないんだ。新聞社の中に、テレビ局の中にタブーがある」
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「法学的思考」と「経済学的思考」
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マスコミに対するブログの強み
http://mojix.org/2009/01/13/blog_strength