正しい政策かどうかを判定する方法
一昨日・昨日とリフレ政策について書いたが、私がリフレ政策を支持しない理由について、あらためて説明しておきたい。
何らかの政策について、それが正しい政策かどうかを判定するのに、私はおよそ次のような基準を用いている。
「その政策をやったときに、価値を生み出す生産活動に向かおう、とみんなに思わせるかどうか」
例えば、「増税する」という政策について、この基準で考えてみよう。政府が「増税します」と言ったとき、「よし、それならもっとがんばって働こう!」と国民が思うだろうか。思うわけがない。「ふざけるな、財政のムダづかいをやめるのが先だろ!」と誰もが考えるだろう。
先日の名古屋でのトリプル選では、河村たかし陣営が圧勝した。これはなぜか。「減税します」「高すぎる議員報酬を減らします」という姿勢が住民に支持されたからだ。税金が安くなり、役所のムダも減るのであれば、希望がわいてきて、もっと働こうという気になる。
では、規制についてはどうか。「あれもダメ、これもダメ」と制限したり、何かをやるたびに面倒な手続きや費用が必要だとしたら、「よし、それならもっとがんばって働こう!」と国民が思うだろうか。思うわけがない。「人を雇ったら、解雇してはいけない」という規制があったら、「よし、それならもっと人を採用しよう!」と経営者が思うだろうか。思うわけがない。
規制も「コスト」であり、一種の税金である。あらゆる規制をなくすのは無理でも、ほんとうに必要な規制にとどめておかなければ、国民生活や企業活動を妨げてしまう。税金は目に見えるコストだが、規制は目に見えないコストなので、よけいタチが悪い。日本は税金も高いが、経済活動やイノベーションをより妨げているのは、むしろ強い規制のほうである。
では、リフレ政策についてはどうか。リフレ政策をやって通貨を膨張させ、何百兆円もバラまいたとする。このとき、「よし、それならもっとがんばって働こう!」と国民は思うだろうか。
日本円の価値が下がり、インフレになるので、マネーは株や不動産、商品市場、外貨などに流れる。こうなると、「がんばって働こう」と思うのはごく真面目な人だけで、「働くよりも、株や先物、FXなどをやったほうが、手っ取り早く金儲けできる」と考える人が増えるだろう。株や先物、FXなどは、間接的には価値の創出につながっている面もあるが、それ自体は直接の価値を生み出す経済活動とは言えない。
国の経済力は、その国民自身や他の国の人たちが「欲しい」「買いたい」と思うものを、その国がどれだけ持っているか、どれだけ作り出せるかで決まる。「価値を生み出す生産活動に向かおう、とみんなに思わせるかどうか」が政策の判断基準になると私が考えるのは、これが理由である。
リフレ政策というのは、バーナンキが「ヘリコプターからカネをバラまく」と表現したように、一種の「バラマキ」である。これは公共事業のバラマキと同じく、まっとうな生産活動に向かおうというインセンティブを歪ませ、「もっとうまく金儲けしよう」と思わせてしまうところがある。いちどヘリコプターでカネをバラまいてしまうと、「またバラまくだろう」と思われてしまい、「またバラまいてくれ」という圧力が強まるのだ。
小林慶一郎氏は「デフレ脱却をめぐる思想の対立」(2004年)という論考において、構造改革派と金融緩和派の思想対立を、ハイエクが提示した「自由主義」対「設計主義」という枠組みにあてはめている(「小林慶一郎「デフレ脱却をめぐる思想の対立」(2004年)」)。
金融緩和とは、市場に対する政府の関与を強めて、市場を操作しようとする方向なので、「設計主義」になる。いっぽう構造改革は、通常は規制緩和によって政府の関与を弱める方向なので、「自由主義」になる。自由主義者でリバタリアンの私が、リフレ政策を支持する気になれない理由も、この図式にあらわれている。
私から見ると、いまの日本経済が不調な原因は、高い税金・強い規制という「構造」がボトルネックになって、国の競争力低下を招いているからだ。いっぽう、リフレ派が主張するような「金融緩和が足りない」「モノが多くてカネが不足している」というのは、私にはまったくボトルネックに思えない。カネはむしろあり余っていて、足りないのはカネではなく、成長する企業や起業家、イノベーションなどのほうだ。つまり、不足しているのは「成長力」「投資機会」のほうだ。
もちろん、モノが多いとか、モノが売れないというのはその通りだろう。しかし、これを「カネが不足している」からだと考えるというのは、おかしな見方だと思う。そしてこれこそが、リフレ派の大きな誤りだと思うのだ。
「モノが売れないのはカネが不足しているからだ」という見方は、菅直人首相の「第三の道」の議論にも似たところがある。菅直人首相は以前、竹中平蔵氏との対談のなかで、モノが売れないのは「需要不足」であり、その不足分の需要を政府が生み出すべきだ、といった話をしていた(「竹中平蔵vs菅直人 「現実が変わった」ことを受け入れられない日本」)。
リフレ派の金融緩和にせよ、菅氏の言う「第三の道」の財政出動にせよ、市場に対する政府の関与を強める方向である。しかし私から見れば、日本経済がうまくいっていない理由は、すでに政府の関与が強すぎて、民間経済が窒息させられているからだ。よって、減税と規制緩和によって、この政府の関与を弱める必要がある。
リフレ派の主張は、モノに対してカネが少ないので、カネを増やしてインフレを起こせ、というものだ。菅氏の「第三の道」は、供給に対して需要が少ないので、財政出動して需要をつくりだせ、というものだ。私から見ると、政府が市場に介入して無理やりコントロールしようとする点では似たようなもので、いずれも「設計主義」だと感じる。この意味では、リフレ派の考え方というのは、一種の「金融社会主義」であるように思う。
かんたんに言うと、「モノが売れない」という現状に対して、リフレ派と菅氏の「第三の道」のアプローチは、それぞれ次のようなものだ。
リフレ派:カネを増やしてカネの価値を希薄化し、無理やりモノを買わせる。
菅氏の「第三の道」:財政出動して、売れないものは政府が買いあげる。
この2つのアプローチはいずれも、「モノが売れない」という現状をどう見るかに関して、次の2点で共通している。
1)モノの側に魅力がないとは考えない
2)モノを無理やり買わせたり、政府が買い上げればいいと考える
この考え方の異常さは、普通に生活している人間の感覚に立ち戻れば、すぐにわかるだろう。売れない店や、売れない商品がある場合、その理由を「買わない人が悪い」と考える人はほとんどいない。単に、その店や商品に魅力がなかったり、価格競争力がないのだ。
商売はつねに競争である。10年前なら競争力があった企業や商品でも、10年前と変わらない場合、競争力を失ってしまっているということはよくある。もちろん、10年前・100年前から変わらないということが、むしろ価値になる場合もある。それはケースバイケースだ。
同じことが、日本という国自体に言える。高度成長の頃と同じように、大半の国民が勤勉に働いているのだとしても、いまや新興国が山ほどあり、かつての日本のような急成長を遂げている国も少なくない。日本はもう、昔と同じことをやっていてもダメなのだ。何を作り、何を売り、どうやって生き残るのか。それをつねに考えつづけ、つねに改革しつづけ、つねにスキルアップしていかなければならない。
こんなことは、みずから商売している経営者や事業主はもちろん、並のビジネスパーソンであれば常識だろう。「売れない」ことを、「買わない」客のせいにする商売人など、ほとんど存在しない。売れないなら、売れるように努力するのが当然である。
ところがリフレ派や菅氏の「第三の道」の場合、「売れない」ことを、カネが不足しているとか、需要が不足していると見なして、無理やり「買い」を生み出そうとする。これでは、価値のあるものが生き残るという市場競争を歪めてしまう。それも、その「買い」のコストは国民から無理やり徴収されるのだ。リフレ政策の場合、この「徴収」は日本円の希薄化を通じておこなわれるので、税金を直接取るのに比べるとわかりにくいが、「インフレ税」とも呼ばれるように、一種の税金に近い。
市場競争を歪めれば、市場参加者のインセンティブも歪んでしまう。努力して魅力のある商品やサービスを生み出すよりも、寝ていても値上がりする金融資産を持ちたいと考えたり、政府のバラマキにすがろうと考えるようになる。こういう考え方の人が増えれば、価値を生み出す生産活動は減り、国の競争力は落ちるだろう。
「その政策をやったときに、価値を生み出す生産活動に向かおう、とみんなに思わせるかどうか」という私の政策判定基準は、「国の競争力を上げるか」と言い換えてもいい。国の競争力は、生産活動やイノベーションの総和である。よって、国の競争力を上げる政策とは、生産活動やイノベーションを促進し、ジャマしない政策である。生産活動やイノベーションを促進し、ジャマしない政策とは、国の関与を減らす政策であり、具体的には減税と規制緩和である。
関連エントリ:
経済の本質は「お金」でなく「物々交換」で考えたほうがわかりやすい
http://mojix.org/2010/12/06/keizai-honshitsu
誰のための規制か 「コスト」を考えない「正義」は、ほんとうに「正義」と言えるのか
http://mojix.org/2010/11/03/why-regulation
小林慶一郎「デフレ脱却をめぐる思想の対立」(2004年)
http://mojix.org/2010/09/23/kobayashi-deflation
竹中平蔵vs菅直人 「現実が変わった」ことを受け入れられない日本
http://mojix.org/2009/12/17/takenaka_kan
何らかの政策について、それが正しい政策かどうかを判定するのに、私はおよそ次のような基準を用いている。
「その政策をやったときに、価値を生み出す生産活動に向かおう、とみんなに思わせるかどうか」
例えば、「増税する」という政策について、この基準で考えてみよう。政府が「増税します」と言ったとき、「よし、それならもっとがんばって働こう!」と国民が思うだろうか。思うわけがない。「ふざけるな、財政のムダづかいをやめるのが先だろ!」と誰もが考えるだろう。
先日の名古屋でのトリプル選では、河村たかし陣営が圧勝した。これはなぜか。「減税します」「高すぎる議員報酬を減らします」という姿勢が住民に支持されたからだ。税金が安くなり、役所のムダも減るのであれば、希望がわいてきて、もっと働こうという気になる。
では、規制についてはどうか。「あれもダメ、これもダメ」と制限したり、何かをやるたびに面倒な手続きや費用が必要だとしたら、「よし、それならもっとがんばって働こう!」と国民が思うだろうか。思うわけがない。「人を雇ったら、解雇してはいけない」という規制があったら、「よし、それならもっと人を採用しよう!」と経営者が思うだろうか。思うわけがない。
規制も「コスト」であり、一種の税金である。あらゆる規制をなくすのは無理でも、ほんとうに必要な規制にとどめておかなければ、国民生活や企業活動を妨げてしまう。税金は目に見えるコストだが、規制は目に見えないコストなので、よけいタチが悪い。日本は税金も高いが、経済活動やイノベーションをより妨げているのは、むしろ強い規制のほうである。
では、リフレ政策についてはどうか。リフレ政策をやって通貨を膨張させ、何百兆円もバラまいたとする。このとき、「よし、それならもっとがんばって働こう!」と国民は思うだろうか。
日本円の価値が下がり、インフレになるので、マネーは株や不動産、商品市場、外貨などに流れる。こうなると、「がんばって働こう」と思うのはごく真面目な人だけで、「働くよりも、株や先物、FXなどをやったほうが、手っ取り早く金儲けできる」と考える人が増えるだろう。株や先物、FXなどは、間接的には価値の創出につながっている面もあるが、それ自体は直接の価値を生み出す経済活動とは言えない。
国の経済力は、その国民自身や他の国の人たちが「欲しい」「買いたい」と思うものを、その国がどれだけ持っているか、どれだけ作り出せるかで決まる。「価値を生み出す生産活動に向かおう、とみんなに思わせるかどうか」が政策の判断基準になると私が考えるのは、これが理由である。
リフレ政策というのは、バーナンキが「ヘリコプターからカネをバラまく」と表現したように、一種の「バラマキ」である。これは公共事業のバラマキと同じく、まっとうな生産活動に向かおうというインセンティブを歪ませ、「もっとうまく金儲けしよう」と思わせてしまうところがある。いちどヘリコプターでカネをバラまいてしまうと、「またバラまくだろう」と思われてしまい、「またバラまいてくれ」という圧力が強まるのだ。
小林慶一郎氏は「デフレ脱却をめぐる思想の対立」(2004年)という論考において、構造改革派と金融緩和派の思想対立を、ハイエクが提示した「自由主義」対「設計主義」という枠組みにあてはめている(「小林慶一郎「デフレ脱却をめぐる思想の対立」(2004年)」)。
金融緩和とは、市場に対する政府の関与を強めて、市場を操作しようとする方向なので、「設計主義」になる。いっぽう構造改革は、通常は規制緩和によって政府の関与を弱める方向なので、「自由主義」になる。自由主義者でリバタリアンの私が、リフレ政策を支持する気になれない理由も、この図式にあらわれている。
私から見ると、いまの日本経済が不調な原因は、高い税金・強い規制という「構造」がボトルネックになって、国の競争力低下を招いているからだ。いっぽう、リフレ派が主張するような「金融緩和が足りない」「モノが多くてカネが不足している」というのは、私にはまったくボトルネックに思えない。カネはむしろあり余っていて、足りないのはカネではなく、成長する企業や起業家、イノベーションなどのほうだ。つまり、不足しているのは「成長力」「投資機会」のほうだ。
もちろん、モノが多いとか、モノが売れないというのはその通りだろう。しかし、これを「カネが不足している」からだと考えるというのは、おかしな見方だと思う。そしてこれこそが、リフレ派の大きな誤りだと思うのだ。
「モノが売れないのはカネが不足しているからだ」という見方は、菅直人首相の「第三の道」の議論にも似たところがある。菅直人首相は以前、竹中平蔵氏との対談のなかで、モノが売れないのは「需要不足」であり、その不足分の需要を政府が生み出すべきだ、といった話をしていた(「竹中平蔵vs菅直人 「現実が変わった」ことを受け入れられない日本」)。
リフレ派の金融緩和にせよ、菅氏の言う「第三の道」の財政出動にせよ、市場に対する政府の関与を強める方向である。しかし私から見れば、日本経済がうまくいっていない理由は、すでに政府の関与が強すぎて、民間経済が窒息させられているからだ。よって、減税と規制緩和によって、この政府の関与を弱める必要がある。
リフレ派の主張は、モノに対してカネが少ないので、カネを増やしてインフレを起こせ、というものだ。菅氏の「第三の道」は、供給に対して需要が少ないので、財政出動して需要をつくりだせ、というものだ。私から見ると、政府が市場に介入して無理やりコントロールしようとする点では似たようなもので、いずれも「設計主義」だと感じる。この意味では、リフレ派の考え方というのは、一種の「金融社会主義」であるように思う。
かんたんに言うと、「モノが売れない」という現状に対して、リフレ派と菅氏の「第三の道」のアプローチは、それぞれ次のようなものだ。
リフレ派:カネを増やしてカネの価値を希薄化し、無理やりモノを買わせる。
菅氏の「第三の道」:財政出動して、売れないものは政府が買いあげる。
この2つのアプローチはいずれも、「モノが売れない」という現状をどう見るかに関して、次の2点で共通している。
1)モノの側に魅力がないとは考えない
2)モノを無理やり買わせたり、政府が買い上げればいいと考える
この考え方の異常さは、普通に生活している人間の感覚に立ち戻れば、すぐにわかるだろう。売れない店や、売れない商品がある場合、その理由を「買わない人が悪い」と考える人はほとんどいない。単に、その店や商品に魅力がなかったり、価格競争力がないのだ。
商売はつねに競争である。10年前なら競争力があった企業や商品でも、10年前と変わらない場合、競争力を失ってしまっているということはよくある。もちろん、10年前・100年前から変わらないということが、むしろ価値になる場合もある。それはケースバイケースだ。
同じことが、日本という国自体に言える。高度成長の頃と同じように、大半の国民が勤勉に働いているのだとしても、いまや新興国が山ほどあり、かつての日本のような急成長を遂げている国も少なくない。日本はもう、昔と同じことをやっていてもダメなのだ。何を作り、何を売り、どうやって生き残るのか。それをつねに考えつづけ、つねに改革しつづけ、つねにスキルアップしていかなければならない。
こんなことは、みずから商売している経営者や事業主はもちろん、並のビジネスパーソンであれば常識だろう。「売れない」ことを、「買わない」客のせいにする商売人など、ほとんど存在しない。売れないなら、売れるように努力するのが当然である。
ところがリフレ派や菅氏の「第三の道」の場合、「売れない」ことを、カネが不足しているとか、需要が不足していると見なして、無理やり「買い」を生み出そうとする。これでは、価値のあるものが生き残るという市場競争を歪めてしまう。それも、その「買い」のコストは国民から無理やり徴収されるのだ。リフレ政策の場合、この「徴収」は日本円の希薄化を通じておこなわれるので、税金を直接取るのに比べるとわかりにくいが、「インフレ税」とも呼ばれるように、一種の税金に近い。
市場競争を歪めれば、市場参加者のインセンティブも歪んでしまう。努力して魅力のある商品やサービスを生み出すよりも、寝ていても値上がりする金融資産を持ちたいと考えたり、政府のバラマキにすがろうと考えるようになる。こういう考え方の人が増えれば、価値を生み出す生産活動は減り、国の競争力は落ちるだろう。
「その政策をやったときに、価値を生み出す生産活動に向かおう、とみんなに思わせるかどうか」という私の政策判定基準は、「国の競争力を上げるか」と言い換えてもいい。国の競争力は、生産活動やイノベーションの総和である。よって、国の競争力を上げる政策とは、生産活動やイノベーションを促進し、ジャマしない政策である。生産活動やイノベーションを促進し、ジャマしない政策とは、国の関与を減らす政策であり、具体的には減税と規制緩和である。
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http://mojix.org/2009/12/17/takenaka_kan